玉ノ井福司

明治時代の力士

玉ノ井 福司(たまのい ふくじ、1860年(万延元年)6月9日(旧暦4月20日) - 1900年(明治33年)10月28日)は、下野国那須郡(現:栃木県大田原市)出身の元大相撲力士[1]。本名は玉野井 福治(たまのい ふくじ)[1]

玉ノ井 福司
基礎情報
四股名 玉ノ井 福司
本名 玉野井 福治
生年月日 (1860-06-09) 1860年6月9日
没年月日 (1900-10-28) 1900年10月28日(40歳没)
出身 下野国那須郡
(現:栃木県大田原市
身長 173cm
体重 98kg
所属部屋 伊勢ノ海部屋玉ノ井部屋
成績
現在の番付 引退
最高位 西前頭4枚目
幕内戦歴 49勝65敗7分7預32休(16場所)
データ
初土俵 1885年5月場所(二段目
入幕 1893年1月場所
引退 1900年1月場所
備考
金星1個(小錦八十吉
2019年6月23日現在

来歴

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1860年(万延元年)6月9日(旧暦4月20日)に下野国那須郡(現:栃木県大田原市)で生まれる。入門以前は地元・栃木県の小学校で代用教員や役場の書記を務めていたが、相撲好きが高じて伊勢ノ海部屋に入門したと伝わる。1885年5月場所にて二段目(現在の幕下)から初土俵を踏むと、1889年1月場所で新十両昇進[2]1893年1月場所で新入幕を果たした。入幕後は勝率が5割に僅かに届かない程度で推移しており、結果的に三役昇進は果たせなかったものの上位陣には善戦することもあり、1899年5月場所では小錦八十吉から金星を挙げている[3]

1898年5月場所から8代・玉ノ井を二枚鑑札で継承して部屋の経営も担当したが、多忙が祟り、1900年10月28日に巡業先だった愛知県名古屋市で脳充血により急逝した。40歳没。

エピソード

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  • 1891年1月場所6日目(1月15日)の泉滝福治戦で、自身の廻しが外れる珍事が発生した。両者は「新弟子としては高齢での初土俵」「部屋を移籍した」「現役中に巡業先で急死」などの多くの共通点が挙げられる。また当時は不浄負けの制度が存在しておらず、直ぐに廻しを締め直し、結果的には取り直しの末に引き分けになったと伝わる[4]

脚注

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  1. ^ a b http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=3518&l=j
  2. ^ この時の番付は東二段目6枚目となり、「十両相当」だった。
  3. ^ 入幕順幕内力士一行紹介・二十(相撲評論家の頁)
  4. ^ 記録では1888年1月場所8日目(2月5日)の相生芳藏 - 嵐山捨吉戦で嵐山の廻しが外れて以来、二度目の出来事。なお、対戦相手の相生も現役中に亡くなっている。

参考文献

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  • 景山忠弘、小池謙一『古今大相撲力士事典』国書刊行会、1989年。ISBN 4336018782全国書誌番号:90011024 

 関連項目 

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