源清平
源 清平(みなもと の きよひら)は、平安時代前期から中期にかけての公卿。式部卿・是忠親王の次男。
時代 | 平安時代前期 - 中期 |
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生誕 | 元慶元年(877年) |
死没 | 天慶8年正月13日(945年2月27日) |
官位 | 正四位下、参議 |
主君 | 醍醐天皇→朱雀天皇 |
氏族 | 光孝源氏 |
父母 | 父:是忠親王 |
兄弟 | 式順王、式瞻王、興我王、源和、忠望王、今扶王、英我王、源清平、源正明、源宗于、姣子女王 |
妻 | 不詳 |
子 | 師保、是輔、共貞、相規 |
経歴
編集醍醐朝の延喜2年(902年)文章生となる。延喜3年(903年)二世王の蔭位により従四位下に直叙され、翌延喜4年(904年)弾正大弼に任ず。
延喜10年(910年)山城守に任ぜられると、延喜11年(911年)大和守、延喜16年(916年)三河権守、延喜17年(917年)河内守に叙任されるなど、醍醐朝中期は専ら地方官を歴任し、この間の延喜16年(916年)従四位上に叙せられている。
延喜23年(923年)に兵部大輔次いで左京大夫と京官に復帰する。延長5年(927年)近江権守と醍醐朝末から再び地方官に転じ、承平2年(932年)には大和守に再任されている。承平4年(934年)正四位下。承平7年(937年)勘解由長官、天慶2年(939年)右大弁と朱雀朝中期は京官を務め、天慶4年(941年)には参議となり65歳にして公卿に列すが、同時に大宰大弐を兼ね大宰府に赴任した。
官歴
編集『公卿補任』による。
- 延喜2年(902年) 9月:文章生
- 延喜3年(903年) 正月7日:従四位下(直叙)
- 延喜5年(905年) 2月:弾正大弼
- 延喜10年(910年) 正月13日:山城守
- 延喜11年(911年) 正月13日:大和守
- 延喜16年(916年) 5月22日:従四位上。8月29日:三河権守
- 延喜17年(917年) 正月29日:河内守
- 延喜23年(923年) 正月12日:兵部大輔。6月22日:左京大夫。6月27日:昇殿
- 延長5年(927年) 正月12日:近江権守。2月18日:赴任[1]
- 承平2年(932年) 正月27日:大和守
- 承平4年(934年) 正月29日:正四位下
- 承平7年(937年) 3月:勘解由長官
- 天慶2年(939年) 8月27日:右大弁
- 天慶4年(941年) 3月28日:参議、大宰大弐、止弁
- 天慶8年(945年) 正月13日:卒去(参議正四位下行大宰大弐)
系譜
編集脚注
編集参考文献
編集- 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
- 『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年