河合常則
河合 常則(かわい つねのり、1937年1月10日 - 2017年9月7日[1][2])は、日本の政治家。自由民主党所属の元参議院議員(1期)。富山県東礪波郡城端町(現南砺市)出身。
河合 常則 かわい つねのり | |
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総務大臣政務官就任に際し公表された公式肖像写真 | |
生年月日 | 1937年1月10日 |
出生地 | 日本 富山県南砺市 |
没年月日 | 2017年9月7日(80歳没) |
死没地 | 富山県南砺市 |
出身校 | 慶應義塾大学経済学部通信教育課程卒 |
所属政党 | 自由民主党(額賀派) |
称号 | 経済学士(慶應義塾大学) |
選挙区 | 富山県選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 2004年 - 2010年7月25日 |
選挙区 | 東礪波郡選挙区 |
当選回数 | 8回 |
在任期間 | 1975年 - 2004年 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1964年 - 1975年 |
経歴
編集1955年、富山県立福野高等学校、1961年、慶應義塾大学経済学部通信教育課程卒業。卒論は「日本中小商業の一分析視角」[3]。1964年、城端町議会議員に当選。以後連続3期務める。1975年、富山県議会議員に当選。以後8期連続務める。1991年には富山県議会議長に就任。
2004年7月、第20回参議院議員通常選挙に自民党公認で富山県選挙区に立候補し初当選。額賀派に所属する。
2005年8月8日の郵政民営化法案の参議院本会議採決では反対票を投じ、1年間の党役職資格停止のペナルティを受けるが、後に賛成に転じた。河合は県議時代から富山3区選出の国民新党衆議院議員・綿貫民輔の側近中の側近として知られており、この投票行動は郵政民営化に反対する綿貫に同調したものとみられている。
2006年9月、安倍内閣で総務大臣政務官(筆頭。担当分野は行政改革と政策評価。行政管理局、行政評価局、統計局の所管[4])に任命された。政務官を退任後も自民党総務会総務、参院総務委員会理事を歴任した。
2008年9月21日、国民新党公認で衆議院選挙へ立候補する予定の綿貫を応援する為に、自民党を離党する見通しであることが北日本新聞で報じられた。
その後、綿貫が比例単独での立候補を表明したため離党は回避されたが、2009年の衆議院選挙を目前に控えて、河合は比例代表では国民新党を支援すると発言し、自民党富山県連内で波紋を呼んだ。
同年8月3日に開かれた自民党富山県連の常任総務会で会長の坂田光文は「黙認ではない」と強調して、党内での河合の処分をほのめかし、さらに直後に開かれた富山2区の県議団会議では、河合を応援弁士に呼ばないことを決めたことが翌日付の北日本新聞で報じられた。
2009年11月12日より任期満了まで参議院内閣委員長を務めた。
2010年の第22回参議院議員通常選挙には立候補せず、1期限りで政界から引退。
2017年9月7日、慢性骨髄単球性白血病のため死去[5][6]。80歳没[2]。
所属していた団体・議員連盟
編集出典
編集- ^ “河合常則氏が死去 元参院議員”. 日本経済新聞. (2017年9月7日) 2020年2月28日閲覧。
- ^ a b 元自民党参院議員の河合常則氏死去 - 2017年9月7日(同日閲覧)
- ^ 河合常則ホームページ 疾風怒濤の時代
- ^ 河合常則ホームページ 新聞記事より 2006年版(Archived 2007年5月13日, at the Wayback Machine.)
- ^ “訃報 河合常則さん80歳=元自民党参院議員”. 毎日新聞 (2017年9月7日). 2020年11月26日閲覧。
- ^ “河合常則さん死去”. 朝日新聞デジタル (2017年9月8日). 2020年8月6日閲覧。
外部リンク
編集- 総務大臣政務官 河合常則 - 安倍内閣大臣政務官名簿 - ウェイバックマシン(2006年10月4日アーカイブ分)
議会 | ||
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先代 愛知治郎 |
参議院内閣委員長 2009年 - 2010年 |
次代 柳澤光美 |
公職 | ||
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総務大臣政務官 土屋正忠 谷口和史と共同 2006年 - 2007年 |
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