河原侃二

1897-?, 俳優、詩人、写真家。

河原 侃二(かわら かんじ、1897年4月16日 - 1974年1月26日[1])は、日本の俳優であり[2][3][4][5][6][7][8][9][10][11]詩人編集者出身で写真家としても知られる[2][1][12][13]。本名同じ[2][3][4]。詩人としての筆名は河原 森月(かわら しんげつ)[14]萩原朔太郎とともに詩誌『侏儒』を創刊し、新劇俳優としては「築地小劇場」「第二次芸術座」の設立に参加、写真の世界では「ヴェス単の名手」として知られる[2][1][3][4]

かわら かんじ
河原 侃二
河原 侃二
1933年の写真(『一九三三年版 オール松竹俳優名鑑』)
本名
別名義 河原 森月 (かわら しんげつ)
生年月日 (1897-04-16) 1897年4月16日
没年月日 (1974-01-26) 1974年1月26日(76歳没)
出生地 日本の旗 日本 兵庫県赤穂郡赤穂町(現在の同県赤穂市
死没地 日本の旗 日本 東京都渋谷区松濤
身長 175.8cm
職業 俳優詩人編集者写真家
ジャンル 新劇劇映画時代劇現代劇剣戟映画サイレント映画トーキー)、テレビ映画
活動期間 1914年 - 1971年末
配偶者 有(死別)
受賞
「映画の日」永年勤続功労章(1966年)
テンプレートを表示

人物・来歴

編集

詩歌と絵画と新劇と

編集

1897年明治30年)4月16日兵庫県赤穂郡赤穂町(現在の同県赤穂市)に生まれる、とされている[2][3][4][8]。『群馬県百科事典』(上毛新聞社)には、生年は1899年(明治32年)、生地は群馬県前橋市堀川町(現在の同市表町)である旨が記されている[1]

生後に東京に移り、東京府荏原郡品川町(現在の東京都品川区)の旧制・公立小学校品川学校(のちの品川区立品川小学校、現在の品川区立品川学園)に入学、同校を卒業して、東京市芝区(現在の東京都港区)の旧制・正則中学校(現在の正則高等学校)に入学する[2][3]。中途で同校から、旧制・群馬県立前橋中学校(現在の群馬県立前橋高等学校)に編入学して、のちに同校を卒業する[2][1][3]

同校在学中の1914年(大正3年)8月、萩原朔太郎を筆頭に参加した詩誌『侏儒』(こびと)を創刊、満17歳にして同誌の編集人となり、編集部を前橋市堀川町の河原宅に置いた[1][15][13][14]。同誌には、当時河原が深く交流し詩についての薫陶を受けた朔太郎のほか、北原白秋山村暮鳥前田夕暮室生犀星村田ゑん尾山篤二郎木下謙吉北原放二らが参加しており、同県内における最初の本格的な詩誌として評価された[15][13][14][16]。同誌には、すでに絵画に興味があった河原による版画が掲載されている[13]。同年9月に尾山篤二郎が創刊し、犀星、朔太郎、窪田空穂、白秋、暮鳥らが参加した詩誌『異端』には、河原の書いた短歌が掲載された[14]。1918年(大正7年)には、河原が中心となって詩誌『天景』を前橋で創刊、萩原恭次郎らがこれに参加する[17]

その後、東京に戻り、本郷区春木町(現在の文京区本郷)に岡田三郎助が設立した本郷洋画研究所で洋画を学ぶ[2][1][3][4]。画業は中途で放棄し、女子文壇社、次いで報知新聞社でそれぞれ記者を務めた[2][3][4]。その後、新劇の世界に入って舞台俳優となり、青山杉作の主宰する「新劇団」、友田恭助初代水谷八重子の「わかもの座」、村山実らによる「踏路社」(1917年 - 1920年)に参加した[2][1][3][4]奥野信太郎の指摘によれば、河原は、関東大震災前の時期に浅草公園六区で隆盛を極めた「浅草オペラ」の舞台に出演していたという[18]

1923年(大正12年)9月1日の震災を経験した後は、小山内薫土方与志の「築地小劇場」(1924年 - 1930年)、水谷竹紫・初代水谷八重子が1924年(大正13年)に始めた「第二次芸術座」、井上正夫一座にそれぞれ参加した[2][1][3][4]。とくに「築地小劇場」では、河原はその設立メンバーであり、友田恭助、東屋三郎汐見洋、青山杉作ともに演技部に所属し、のちに新劇界の重鎮となっていく千田是也山本安英田村秋子丸山定夫らは当時はまだ研修生であった[19]。同年7月12日に同劇場が上演したカレル・チャペック作の『人造人間』にも出演した[20]。「第二次芸術座」による小寺融吉作、水谷八重子主演の『真間の手古奈』には赤丸役で出演している[1][20]。水谷の回想によれば、このときの同座の陣容は、水谷や河原のほか、田辺若男金平軍之助浅野進治郎、山岸静江(のちの河原崎しづ江)で、外部からの客演はなかったという[21]。同年5月、芸術座の『軍人礼讃』で河原が演じたペトコフは、岸田國士に「至極愉快な人物になつてゐる」と評価された[22]

映画と写真の時代

編集
 
河原の著書『ヴェス単作画の実技』(光大社、1936年)の表紙。

1926年(大正15年)初頭に、高松豊次郎が主宰するタカマツ・アズマプロダクションに入社、多く時代劇に出演する[2][1][3][4]。同年10月3日に公開された高松操監督の『黄門漫遊記』では、当時満29歳にして水戸黄門を演じて主演した[2][4][5]。映画界に進出していく一方で、同年、河原は、徳永直の門下として、秋田雨雀川添利基柳瀬正夢佐々木孝丸らとともに新劇の劇団「先駆座」を組織している[23][24]

翌1927年(昭和2年)1月には、松竹蒲田撮影所に移籍した[2][1][3][4][5][6]。同年10月14日に公開された小津安二郎の監督デビュー作『懺悔の刃』にも出演している[5]。『一九三三年版 オール松竹俳優名鑑』によれば、1933年(昭和8年)、満36歳当時、身長は5尺8寸つまり約175.8センチメートル、体重17貫つまり約63.8キログラムであったという[3]。同書にはまた「ベスト單玉撮影引伸天下一品」と記されているが[3]、これは、コダックが1912年(大正元年)に発売したヴェスト・ポケット・コダックの撮影・現像・引伸についての河原の技術への評価であり、河原は実際に写真の専門家として知られ、1936年(昭和11年)には『ヴェス単作画の実技』(光大社)という技術書を上梓している[12][25]。当時、同撮影所では、五所平之助や小津安二郎らが映画と同じ35mmフィルムを使用するライカが流行しており、ヴェス単は小津も中学生時代に最初に触れた写真機である[25]。同年1月15日、同撮影所は、神奈川県鎌倉郡大船町(現在の同県鎌倉市大船)に全機能を移転したが、このとき河原も、松竹大船撮影所に異動になった[5][6]第二次世界大戦のさなかも、河原は同撮影所に所属し、映画出演を続けた[5][6]

戦後は、松竹を離れ、東宝が製作・配給した渡辺邦男監督による1946年(昭和21年)12月31日公開の正月映画『愛の宣言[2][6][8]への出演を経て、満50歳を迎える翌年1947年(昭和22年)には、大映東京撮影所に入社した[2][1][4][5][6]。以来、重鎮役・老け役の脇役俳優として多くの大映東京作品に出演した[2][4][5][6]。1959年3月4日 - 1960年9月28日の時期に放映された『少年ジエット』は、大映テレビ室が製作した連続テレビ映画で、河原はこれにレギュラー出演している[10]

赤穂出身の縁から、小林楓村が創刊した『播磨』(1946年 - 1969年)の表紙に毎号、版画を制作して寄稿した[26]。1964年(昭和39年)には、かつての文学仲間である木下謙吉が上梓した『歌集 うつし絵』に『跋』を書き、口絵に版画を制作して掲載している[27]。満71歳となった1968年(昭和43年)9月21日に公開された、同撮影所製作、弓削太郎監督の『高校生芸者』に出演した以降の出演歴が見当たらない[5][6][8][11]。以後の消息は不明[2][4]とされていたが、『群馬県百科事典』にて、1974年(昭和49年)1月26日に東京都渋谷区松濤のセントラル病院で死去したという旨が記されている[1]。満76歳没。

フィルモグラフィ

編集

すべてクレジットは「出演」である[5][6]。公開日の右側には役名[5][6]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[11][28]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。

タカマツ・アズマプロダクション

編集

特筆以外すべて製作は「タカマツ・アズマプロダクション」、すべて配給は自主配給、すべてサイレント映画である[5][6]

松竹蒲田撮影所

編集
 
生さぬ仲』(1932年)出演時、満35歳、左が河原、右は不明。

すべて製作は「松竹蒲田撮影所」、すべて配給は「松竹キネマ」、特筆以外すべてサイレント映画である[5][6]

松竹大船撮影所

編集
 
有りがたうさん』(1936年)出演時、満38歳、左が河原、右は石山隆嗣
 
父ありき』(1942年)出演時、満44歳、左から倉田勇助笠智衆河原

特筆以外すべて製作は「松竹大船撮影所」、戦時中以外すべて配給は「松竹キネマ」のちに「松竹」、以降すべてトーキーである[5][6]

  • 父ありき』 : 監督小津安二郎、配給映画配給社、1942年4月1日公開 - 中学の先生、87分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 間諜未だ死せず』 : 監督吉村公三郎、配給映画配給社、1942年4月23日公開 - 役名不明、117分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 高原の月』 : 監督佐々木啓祐、演出応援佐々木康、配給映画配給社、1942年5月14日公開 - 医者、85分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 男の意気』 : 監督中村登、配給映画配給社、1942年7月9日公開 - 委員A、78分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 誓ひの港』 : 監督大庭秀雄、配給映画配給社、1942年8月6日公開 - 英国船員、65分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 女の手』 : 監督瑞穂春海、製作東亜發聲映画、配給映画配給社、1942年11月19日公開 - 役場の人、95分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 家に三男二女あり』 : 監督瑞穂春海、配給映画配給社、1943年3月11日公開 - 仲人、6分尺の断片が現存(NFC所蔵[11]
  • 敵機空襲』 : 監督野村浩将・吉村公三郎・渋谷実、配給映画配給社、1943年4月1日公開 - 船員、88分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 花咲く港』 : 監督木下恵介、配給映画配給社、1943年7月29日公開 - 袈裟次、82分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 北方に鐘が鳴る』 : 監督大曾根辰夫、製作松竹下加茂撮影所、配給映画配給社、1943年8月26日公開 - 太宰勘兵衛
  • 勝鬨音頭』 : 監督大庭秀雄、配給映画配給社、1944年1月8日公開 - 社長秘書、88分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 不沈艦撃沈』 : 監督マキノ正博、配給映画配給社、1944年3月23日公開 - 役名不明、96分尺で現存(NFC所蔵[11]

大映東京撮影所

編集

特筆以外すべて製作は「大映東京撮影所」、すべて配給は「大映」である[5][6][8]

  • 銀河の都』 : 監督村山三男、1957年1月9日公開 - 長唄家元
  • 駅馬車襲わる』 : 監督田中重雄、1957年2月20日公開 - 父ヱラマンテ
  • 満員電車』 : 監督市川崑、1957年3月27日公開 - 大学総長(大正時代)
  • 女の肌』 : 監督島耕二、1957年4月23日公開 - 老人
  • くちづけ』 : 監督増村保造、1957年7月23日公開 - 章子の父、74分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 夜の蝶』 : 監督吉村公三郎、1957年7月28日公開 - 占師、90分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 春高樓の花の宴』 : 監督衣笠貞之助、1958年1月29日公開 - 男幹事、111分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 』 : 監督田中重雄、1958年3月5日公開 - 小学校校長
  • 氷壁』 : 監督増村保造、1958年3月18日公開 - 上条信一、96分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 素っ裸の青春』 : 監督原田治夫、1958年8月12日公開 - 善七
  • 不敵な男』 : 監督増村保造、1958年9月7日公開 - 高校教師、85分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 母の旅路』 : 監督清水宏、1958年9月12日公開 - 来賓客B、92分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 一粒の麦』 : 監督吉村公三郎、1958年9月14日公開 - 一郎の老父、112分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 共犯者』 : 監督田中重雄、1958年10月22日公開 - 千葉の老人
  • 明日から大人だ』 : 監督原田治夫、1960年2月24日公開 - 尾関院長
  • 痴人の愛』 : 監督木村恵吾、1960年4月17日公開 - 橋本
  • 男は騙される』 : 監督島耕二、1960年6月1日公開 - 天頂の父
  • 轢き逃げ族』 : 監督村山三男、1960年10月8日公開 - ドヤ船の爺さん
  • 女は夜化粧する』 : 監督井上梅次、1961年1月14日公開[7]
  • 女のつり橋』 : 監督木村恵吾、1961年4月16日公開 - ひょうたん屋の親父
  • 五人の突撃隊』 : 監督井上梅次、1961年4月26日公開 - 役名不明、118分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 泥だらけの拳銃』 : 監督木村恵吾、1961年7月19日公開 - 惣兵衛
  • 家庭の事情』 : 監督吉村公三郎、1962年1月3日公開 - 不動産会社社員、93分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 熱砂の月』 : 監督田中重雄、1962年4月29日公開 - フナン王国閣僚
  • 鯨神』 : 監督田中徳三、1962年7月15日公開 - シャキの祖父
  • 秦・始皇帝』 : 監督田中重雄、1962年11月1日公開 - 難民B

ビブリオグラフィ

編集

国立国会図書館蔵書を中心とした著作の一覧である[30]

  • 『侏儒』、侏儒社、1914年 - 編集・執筆
  • 『異端』、異端社、1914年 - 執筆
  • 『天景』、天景社、1918年 - 編集・執筆
  • 『新しい手紙』、手紙雑誌社、1920年
  • 『ベス單の航空寫眞』、『カメラ』6月號(第15巻第6号通巻156号)所収、アルス、1934年6月
  • 『ヴェス単作画の実技』、光大社、1936年
  • 『歌集 うつし絵』、木下謙吉白玉書房、1964年 - 『跋』執筆・口絵版画制作

脚注

編集
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 上毛新聞社[1979], p.211.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s キネマ旬報社[1979], p.178.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n 蒲田[1933], p.29-30.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n 河原侃二jlogos.com, エア、2013年2月20日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 河原侃二日本映画データベース、2013年2月20日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 河原侃二、日本映画情報システム、文化庁、2013年2月20日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 河原侃二、映連データベース、日本映画製作者連盟、2013年2月20日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g 河原侃二KINENOTE, 2013年2月20日閲覧。
  9. ^ 河原侃二allcinema, 2013年2月20日閲覧。
  10. ^ a b c 河原侃二テレビドラマデータベース、2013年2月20日閲覧。
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp bq br bs bt bu bv 河原侃二東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年2月20日閲覧。
  12. ^ a b ヴェス単作画の実技国立国会図書館、2013年2月20日閲覧。
  13. ^ a b c d 刊行会(1971), p. 275-277
  14. ^ a b c d 伊藤[1981], p.42-50.
  15. ^ a b 藤田福夫「室生犀星未発表書翰二十一通 : 「感情」刊行の苦心」『金沢大学語学・文学研究』第2巻、金沢大学教育学部国語国文学会、1971年10月、26-32頁、CRID 1050845760856180864hdl:2297/23689ISSN 0389-8679 
  16. ^ 丑木・宮崎[1989], p.186.
  17. ^ 萩原[1982], p.493.
  18. ^ 藝能[1959.8], p.48.
  19. ^ 照井日出喜「彼岸の築地小劇場(序) -大正デモクラシーから十五年戦争にいたる新劇運動-」『人間科學研究』第6号、北見工業大学、2010年3月、13-52頁、CRID 1390854107986878208doi:10.19000/0000007497ISSN 13495526 
  20. ^ a b 田中[1964], p.204-208.
  21. ^ 水谷[1984], p.31.
  22. ^ 芸術座の『軍人礼讃』岸田國士青空文庫、2013年2月26日閲覧。
  23. ^ 古山[1976], p.147.
  24. ^ 戸板[1956], p.37.
  25. ^ a b 田中[2003], p.93-94.
  26. ^ 小林 1960, p. 1.
  27. ^ 歌集 うつし絵、国立国会図書館、2013年2月20日閲覧。
  28. ^ 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇マツダ映画社、2013年2月20日閲覧。
  29. ^ 有りがたうさん、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年2月20日閲覧。
  30. ^ 河原侃二、国立国会図書館、2013年2月20日閲覧。

参考文献

編集

関連項目

編集

外部リンク

編集