河内 三立麻呂(かわち の みたてまろ)は、奈良時代の人物。。名は参立麻呂とも記される。官位従五位上和泉守

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河内氏(河内連)は百済都慕王の子である陰太貴首王で、同じ都慕王の子孫と称する和朝臣・百済朝臣・菅野朝臣・百済伎・不破連などと同じ系統とされる[1]。元の舒明天皇2年(630年)7月条にある安羅日本府の「河内直」や、天智天皇8年(669年)に遣唐使となった河内鯨らが見える(『日本書紀』)。正倉院文書では河内国河内郡郡司級の氏人が目立っている。

姓の氏人には『日本三代実録貞観4年(862年)3月条に、河内国河内郡大領河内連田村麻呂の名前が見え、また、昌泰2年(899年)6月13日付の「河内国某田地地券」[2]によると、河内郡某郷の刀禰であった河内連広生・広継、河内郡大領であったと思われる河内連清利らの名前があり、これらのことから、河内連氏は河内国の有力な土豪の1つであったと推定される。

経歴

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称徳朝で法王宮大進を務めるが、神護景雲3年(769年)10月、天皇の河内国由義宮行幸に際し、六人部広道高安伊可麻呂らとともに従五位下に叙せられる。また、この時に河内職が設置され、三立麻呂は河内大進を兼ねている。

光仁朝では、山部親王の春宮員外大進を務め、宝亀5年(774年河内権介を兼任した。天応元年(781年)山部親王の即位桓武天皇)に伴って外従五位上に昇叙され、翌天応2年(782年氷上川継の乱直後に和泉守に任ぜられている。

官歴

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続日本紀』による。

脚注

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  1. ^ 『新撰姓氏録』河内諸蕃
  2. ^ 平安遺文』巻9 - 3470頁

参考文献

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