毛利元周
毛利 元周(もうり もとちか)は、江戸時代後期の大名。長門国長府藩13代藩主。
毛利元周 | |
時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 文政10年11月9日(1827年12月26日) |
死没 | 慶応4年5月7日(1868年6月26日) |
改名 | 万次郎、元周 |
戒名 | 諦信院殿梅庵道機大居士 |
墓所 | 山口県下関市長府の覚苑寺 |
官位 | 従五位下左京亮、贈従三位 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家慶、家定、家茂、慶喜 |
藩 | 長門長府藩主 |
氏族 | 毛利氏 |
父母 | 父:毛利元寛、養父:毛利元運 |
妻 | 正室:智鏡院(加藤泰幹の娘) |
子 | 養子:元敏 |
生涯
編集長府藩世嗣だった毛利元寛(12代藩主・元運の兄)の三男として江戸にて誕生。幼名は万次郎。
生後まもなく父が死去したため、先代藩主で叔父に当たる毛利元運の養嗣子となる。弘化2年(1845年)12月に叙任し、嘉永5年(1852年)の元運の死去により跡を継いだ。藩政においては大森海岸、相模湾の警備に努め、砲台を設置した。幕末の動乱の中では、長州藩主・毛利敬親の補佐を務めた。
また、異国船対策にも奔走し、それまでの長府藩の政庁であった櫛崎城(長府陣屋)が海に面しているという理由で、文久4年(1863年)から勝山御殿に政庁を移した。元治元年(1864年)の下関戦争における4カ国連合艦隊との戦いにも参加している。
慶応4年(1868年)3月5日、従弟(元運の子)で養嗣子の毛利元敏に家督を譲って隠居し、直後の5月7日に死去した。享年42。法号は諦信院殿梅庵道機大居士。 墓所は下関市長府の覚苑寺。死後の明治24年(1891年)4月に従三位を追贈された。