柳 楢悦(やなぎ ならよし、天保3年9月15日1832年10月8日) - 明治24年(1891年1月15日)は、日本海軍軍人・和算家[2]数学者測量学者政治家。最終階級は海軍少将錦鶏間祗候元老院議官貴族院議員

柳 楢悦
生年月日 1832年10月8日
(旧暦天保3年9月15日
出生地 日本の旗 日本江戸
没年月日 (1891-01-15) 1891年1月15日(58歳没)
死没地 大日本帝国の旗 大日本帝国東京府
出身校 安濃津藩藩校有造館、長崎海軍伝習所
称号 海軍少将正三位勲二等錦鶏間祗候
配偶者 勝子(後妻・嘉納治五郎の姉)

在任期間 1888年4月18日 - 1890年10月20日
天皇 明治天皇

在任期間 1890年9月29日[1] - 1891年1月15日
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江戸(現・東京)生まれ。津藩の下級藩士・柳惣五郎の長男。嘉納治朗作希芝(嘉納治五郎の父)の娘を後妻としている。

略歴

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栄典

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位階
勲章等

水域測量において

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若き日より和算に熟達し、さらに長崎海軍伝習所ではオランダ式の航海術を学ぶとともに、西洋数学に基づく測量術も習得した。明治2年から、イギリス海軍測量船シルヴィア号の指導を受けながら水域測量の経験を積み、水域測量術の技術向上を目指した。日本における海洋測量の第一人者として測量体制を整備・統率し、日本各地の沿岸・を測量し、海図を作成した。その功績から「日本水路測量の父」「海の伊能忠敬」と称される。

美食家として

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柳楢悦は美食家としても知られており、「割烹研究会」(後「食物研究会」「大日本食物會」に改称)という食物に関する研究会の中心的な人物として活動していただけでなく、御木本幸吉の尽力で、食に関する著作『山陰落栗』が没後出版された。

著書・訳書

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  • 『航海或問』(ピラール著)
  • 『量地括要』(全2巻)
  • 『山陰落栗』

親族

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脚注

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  1. ^ 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
  2. ^ 「柳は、長崎海軍伝習所で幕末当時、日本で最高水準の西洋数学を学んだ人物であるが、本来は和算書を著すほどの和算家であった。写本『新巧算法』の第三編(1850)は柳の編となっている」(佐藤英二『東京数学会社訳語会における「算数学」と「算術」をめぐる論争』東京大学大学院教育学研究科紀要35、1995年、註18)
  3. ^ 海上保安庁水路部編『日本水路史 1871~1971』財団法人日本水路協会、1971年、25頁。
  4. ^ 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
  5. ^ 甲1番大日記 式部寮達 赤塚真成外15名叙位の件」 アジア歴史資料センター Ref.C09111306600 
  6. ^ 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
  7. ^ 『官報』第1911号「叙任及辞令」1889年11月9日。
  8. ^ 『官報』第2263号「叙任及辞令」1891年1月17日。
  9. ^ 『官報』第1473号「叙任及辞令」1888年5月30日。
  10. ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
  11. ^ 『官報』第2205号「彙報 - 官庁事項 - 褒章 - 藍綬褒章下賜」1890年11月4日。

関連項目

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公職
先代
真田庵(→欠員)
水路頭
海軍水路部長
1886年 - 1888年
海軍水路局長
1876年 - 1886年
次代
肝付兼行
部長心得
学職
先代
岡本則録
神田孝平
東京数学会社社長
1880年 - 1882年
次代
(社長廃止)
先代
(新設)
東京数学会社社長
1877年 - 1878年
(神田孝平と共同)
次代
岡本則録
神田孝平
その他の役職
先代
吉田清成
大日本水産会幹事長
1887年 - 1891年
次代
村田保