板倉勝政

日本の江戸時代の大名、備中松山藩の弟4代藩主

板倉 勝政(いたくら かつまさ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名備中国松山藩4代藩主。官位従五位下周防守、主膳正。板倉家宗家10代。

 
板倉勝政
板倉勝政
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝暦9年3月20日1759年4月17日
死没 文政4年3月2日1821年4月4日
戒名 義正院殿天忠源然大居士
官位 従五位下左近将監周防守、主膳正
幕府 江戸幕府 奏者番寺社奉行
主君 徳川家治家斉
備中松山藩
氏族 板倉氏
父母 板倉勝澄、植原氏
板倉勝従
兄弟 勝武戸田光邦勝従勝行勝政
勝峯伊奈忠尊勝房前田利尚正室、
堀直泰正室、巨勢利喬正室、
菅沼定前正室、本多忠盈正室ら
戸田氏英
進藤氏、谷村氏、飯田氏
勝晙勝尚勝喬岩城隆喜正室、
柳沢里世正室ら
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経歴

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初代藩主・板倉勝澄の七男として誕生した。

安永7年(1778年)2月22日、兄で先代藩主の勝従末期養子として家督を継いだ。同年4月28日、10代将軍徳川家治御目見する。安永8年12月16日、従五位下左近将監に叙任する。天明4年(1784年)5月15日、奏者番に就任する。天明8年6月26日、寺社奉行を兼任する。藩政においては藩校有終館を創設した。寛政10年(1798年)5月1日、寺社奉行を辞任する。

享和元年(1801年)3月8日、病を理由に隠居し、四男の勝晙が家督を継いだ。文政4年(1821年)3月2日、63歳で死去した。法号は義正院殿天忠源然大居士。

系譜

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