板倉勝従
板倉 勝従(いたくら かつより)は、江戸時代中期の大名。備中国松山藩3代藩主。官位は従五位下・日向守、隠岐守。板倉家宗家9代。
板倉勝従 | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 寛延3年3月23日(1750年4月29日) |
死没 | 安永7年2月9日(1778年3月7日) |
戒名 | 康長院殿英山源哲大居士 |
墓所 | 西尾市の長圓寺 |
官位 | 従五位下日向守、隠岐守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治 |
藩 | 備中松山藩主 |
氏族 | 板倉氏 |
父母 |
板倉勝澄、根津氏 板倉勝武 |
兄弟 |
勝武、戸田光邦、勝従、勝行、勝政、 勝峯、伊奈忠尊、勝房、前田利尚正室、 堀直泰正室、巨勢利喬正室、 菅沼定前正室、本多忠盈正室ら |
妻 | 奥平昌鹿養女 |
子 | 勝政 |
生涯
編集初代藩主・板倉勝澄の三男として誕生。
先代藩主で兄勝武の実子が全て早世していたため、明和6年(1769年)に兄が死去すると、その養嗣子となって跡を継いだ。藩政に見るところもなく、安永7年(1778年)2月9日、29歳で死去した。嗣子が無く、弟の勝政が跡を継いだ。法号は康長院殿英山源哲大居士。