村岡 益章(むらおか ますあき、1851年1月7日嘉永3年12月6日[1][注 1])- 1920年大正9年)10月24日[2])は、幕末小倉藩士明治時代の政治家福岡県小倉市長。旧名は松太郎[1]

経歴

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小倉藩士・村岡隼太の長男として[3]豊前国企救郡小倉城下(福岡県企救郡小倉町、小倉市を経て現北九州市小倉北区小倉南区)に生まれる[1]1865年(慶応元年10月)家督を相続する[3]

1869年(明治元年12月)香春藩歩兵隊長、ついで豊津藩下等兵小隊長、中隊長などを経て、西海道鎮台二番大隊附を最後に1870年(明治3年9月)除隊する[1]

1878年(明治11年)福岡県に奉職[1]京都仲津郡書記に任じ、京都・仲津・築城上毛四郡書記、京都・仲津郡書記、勧業科諸務係勤務、第一部農商務科諸務係兼農務係勤務、企救郡書記を歴任した[1]

その後、1896年(明治29年)6月、築上郡長に就任し、1897年(明治30年)12月、企救郡長に転じた[1]

1901年(明治34年)6月26日、小倉市長に就任[4]。1906年(明治39年)1月29日まで務めた[4]。その後、旧藩主小笠原伯爵家の家令を務めた[2]

栄典

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位階

脚注

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注釈

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  1. ^ 『人事興信録 初版』622頁では嘉永3年11月6日生。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j 『福岡県小倉市長候補者中正七位村岡益章市長就任ノ件』 - 国立公文書館デジタルアーカイブ、明治34年6月25日。
  2. ^ a b 『豊津町史 下巻』619頁。
  3. ^ a b 人事興信所 1903, 622頁.
  4. ^ a b 北九州市史編さん委員会 1987, 1068頁.

参考文献

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