木梨精一郎
日本の内務官僚、陸軍軍人、政治家
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木梨 精一郎(きなし せいいちろう、弘化2年9月9日(1845年10月9日) - 明治43年(1910年)4月26日)は、日本の内務官僚、陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍歩兵中佐。男爵、錦鶏間祗候。別名を恒準、号は宮圃。
木梨 精一郎 | |
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生年月日 | 1845年10月9日 |
出生地 | 長門国萩城下 |
没年月日 | 1910年4月26日(64歳没) |
死没地 | 京都府京都市御幸町 |
称号 | 男爵、錦鶏間祗候 |
在任期間 | 1884年11月5日 - 1889年12月26日 |
在任期間 | 1890年9月29日 - 1910年4月26日 |
経歴
編集長州藩士・木梨彦右衛門(大組、63石)の嫡男として生まれる。戊辰戦争には、東海道鎮撫総督参謀や東征大総督府参謀補助、奥羽鎮撫総督参謀、仙台追討総軍監を歴任し、戦後、軍功により永世賞典450石を受けた。
長州藩兵第1大隊長を経て明治4年(1871年)に上京、兵部省に出仕して兵部少丞となる。明治5年(1872年)の陸軍省創設後は陸軍少丞となるが、明治6年(1873年)8月、依願免本官となり位階の返上をした。明治7年(1874年)7月、内務省7等出仕となる。明治9年(1876年)2月、内務少丞となるが、同年9月、山城屋事件に連座して閉門49日の処罰を受けた。翌年1月には内務少書記官に就任。明治13年(1880年)3月に陸軍軍人としては後備役となり、同22年(1899年)9月1日に退役した[1]。
明治14年(1881年)3月、兼新潟県大書記官となり、長野県令や長野県知事、元老院議官、貴族院議員(1890年9月29日就任[2])を歴任した。明治23年(1890年)10月20日、錦鶏間祗候となる[3]。明治29年(1896年)6月5日、男爵[4]。明治43年(1910年)4月26日、滞在先であった京都市御幸町の旅館にて死去する。享年65。
栄典
編集- 位階
- 勲章等
脚注
編集参考文献
編集日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 木梨(精一郎)家初代 1896年 - 1910年 |
次代 木梨彝亮 |