影井梅夫
日本の外交官
影井 梅夫(かげい うめお、1920年3月9日 - 2003年7月4日[1])は、日本の外交官。法務省入国管理局長、外務省国際連合局長、駐イタリア特命全権大使、NTT特別参与などを歴任した。
人物・経歴
編集鳥取県気高郡湖山村出身[2]。武蔵高等学校尋常科[3]、同校高等科文科甲組を経て[4]、1941年高等試験外交科合格[5]。同年東京帝国大学法学部政治学科卒業、外務省入省[2][6]。終戦連絡中央事務局連絡官を経て[7]、1947年外交官補、叙二級[8]。
在マニラ日本政府在外事務所一等書記官、日本国とフィリピン共和国との間の賠償協定及び経済開発借款協定につき交渉し且つ署名する全権委員随員を経て[9]、1956年在フィリピン日本国大使館一等書記官[10]。同年内閣法制局参事官(第二部)[11]。1958年外務省アジア局南東アジア課長[12]。
在オーストラリア日本国大使館参事官を経て、1964年在タイ日本国大使館参事官[13]。1966年在シカゴ日本国総領事館総領事[14]。1972年外務省国際連合局長[15]。1973年外務大臣官房審議官[16]。同年法務省入国管理局長[17]。1976年外務大臣官房審議官[18]。
1977年駐ニュージーランド兼トンガ特命全権大使[19]。1979年駐イタリア兼マルタ特命全権大使[20]、国際農業開発基金総務会総務たる日本政府代表[21]。日本電信電話公社特別参与等を経て[22]、1987年日本ユネスコ国内委員会委員[23]。1988年日伊協会顧問[24]。千葉経済大学教授等も務めた[25]。1990年勲二等旭日重光章受章[26]。2003年叙正三位[27]。2003年7月4日、呼吸不全のため死去[1]。
出典
編集- ^ a b 『現代物故者事典2003~2005』(日外アソシエーツ、2006年)p.152
- ^ a b 宝石 3(10) (光文社, 1975-10)
- ^ 武蔵高等学校一覧 2593年度
- ^ 武蔵高等学校一覧 皇紀2598年度
- ^ 官報 1941年10月06日
- ^ 東京帝国大学一覧 昭和16年
- ^ 官報 1945年11月15日
- ^ 官報 1947年12月18日
- ^ 官報昭和31年本紙第8816号 621頁
- ^ 官報昭和31年本紙第8872号 451頁
- ^ 官報昭和31年本紙第8880号 72頁
- ^ 官報昭和33年本紙第9551号 393頁
- ^ 官報昭和39年本紙第11299号 22頁
- ^ 官報昭和41年本紙第12005号 18頁
- ^ 官報昭和47年本紙第13521号 10頁
- ^ 官報昭和48年本紙第13987号 15頁
- ^ 官報昭和48年本紙第14038号 14頁
- ^ 官報昭和51年本紙第14856号 15頁
- ^ 官報昭和52年本紙第15164号 11頁
- ^ 官報昭和54年本紙第15792号 10頁
- ^ 官報昭和54年本紙第15778号 18頁
- ^ NTT business (434) NTTテレマーケティング株式会社 編[他] (NTTテレマーケティング, 1986-05)
- ^ 官報昭和62年本紙第18145号 5頁
- ^ Cronaca : 日伊協会会報 (42) 雑誌 (日伊協会, 1988-07)
- ^ 世界経済評論 = World economic review 32(8)(396) (国際貿易投資研究所, 1988-08)
- ^ 官報平成2年号外第140号 16頁
- ^ 官報平成15年本紙第3668号 10頁
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