市橋直方
日本の江戸時代中期~後期の大名。越後新発田藩4代藩主溝口重雄次男で、近江仁正寺藩3代藩主市橋信直養子。仁正寺藩4代藩主(仁正寺市橋氏5代当主)。従五位下壱岐守。大番頭を勤めた
市橋 直方(いちはし なおかた)は、江戸時代中期の大名。近江国仁正寺藩4代藩主。仁正寺藩市橋家5代。官位は従五位下・壱岐守。
市橋直方(鳥居清信筆、安楽寺蔵) | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 元禄2年(1689年) |
死没 | 寛延3年9月11日(1750年10月10日) |
改名 | 大助(幼名)→直方→享山(号) |
別名 | 通称:主計、兵部 |
戒名 | 恭安院殿元徳享山大居士 |
墓所 | 東京都港区高輪の東禅寺 |
官位 | 従五位下・壱岐守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗 |
藩 | 近江仁正寺藩主 |
氏族 | 溝口氏→市橋氏 |
父母 |
父:溝口重雄、母:嶋氏娘 養父:市橋信直 |
兄弟 |
溝口重元、直方、溝口外記、逸見元長、女子、よめ、かい、きい、せい、峯、 女子 |
妻 |
正室:稲垣重定娘 側室:和田氏、松沢氏 |
子 |
直好、松平康孝、直記、市橋直挙正室 養子:直挙 |
生涯
編集越後国新発田藩4代藩主・溝口重雄の次男として新発田にて誕生した。幼名は大助。通称は主計、兵部。宝永2年(1705年)4月21日、先代藩主・市橋信直の養嗣子となる。宝永3年4月28日、5代将軍・徳川綱吉に御目見する。享保5年(1720年)4月26日、信直の死去で跡を継いだ。同年12月18日、従五位下・壱岐守に叙任した。享保15年(1730年)3月28日、大番頭に就任した。享保18年(1733年)5月11日、辞職する。藩政においては仏教に対して信心深かったことから、領内の多くの廃寺を復興している。享保12年(1727年)頃から病に倒れて療養し始める。
元文元年(1736年)5月25日、養嗣子の直挙に家督を譲って隠居した。元文2年(1737年)11月13日、剃髪して享山と号した。寛延3年(1750年)9月11日、江戸で死去した。享年62。法号は恭安院殿元徳享山大居士。墓所は東京都港区高輪の東禅寺。
系譜
編集父母
正室
- 稲垣重定の娘
側室
- 和田氏
- 松沢氏
子女
養子
脚注
編集注釈
編集出典
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