宇野 元弘(うの もとひろ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将毛利氏の家臣で長州藩士。父は陶隆康、兄に陶隆弘。子に宇野元房宇野弘久宇野弘通がいる。

 
宇野元弘
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文20年(1551年
死没 慶長19年11月8日1614年12月8日
改名 陶鶴千代丸(幼名)→右田鶴千代丸→宇野元弘
別名 通称:八郎→又右衛門尉
法名:道花
主君 毛利隆元輝元秀就
長州藩
氏族 多々良姓大内氏庶流陶氏
多々良姓大内氏庶流宇野氏
父母 父:陶隆康
養父:宇野景政
兄弟 陶隆弘元弘
元房弘久弘通
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生涯

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天文20年(1551年)、陶氏の一族である陶隆康の次男として生まれる。同年9月に陶隆房(後の陶晴賢)が起こした大寧寺の変によって父・隆康と兄・隆弘は討たれたが、元弘は生まれたばかりであったためか難を逃れた。

以降、元弘の陶氏は毛利氏に従って毛利元就による防長経略に加わり、弘治2年(1556年)4月の周防国須々万沼城の戦いで陶氏家臣の江良主水正を討ち取るなど活躍した。この功に対して小早川隆景は、鶴千代丸は若輩ながら抜群の働きであると賞し、元就から恩賞として周防国吉敷郡宇野令[注釈 1]のうちの80余石と玖珂郡生見郷[注釈 2]のうちの20余石を与えられた。

弘治3年(1557年1月15日毛利隆元の加冠状を受けて元服し、「元」の偏諱を拝領した[1]。また、鞍掛山城主・杉隆泰の重臣として弘治元年(1555年)10月の鞍掛合戦で戦死した宇野景政の養子として大内氏の庶流である宇野氏[注釈 3][2]の名跡を継ぎ、宇野元弘と名乗った。

天正2年(1574年12月7日、周防国吉敷郡のうちで約15石の地を与えられ、天正6年(1578年7月24日にはさらに10石の地を加増された[3]

慶長5年(1600年7月8日、別家を立てていた長男の元房が死去。元房には実子がいなかったため養子を迎えようとしたが、直後に起こった関ヶ原の戦いに伴う混乱により、元房の家は断絶となった。

慶長19年(1614年11月8日に死去。享年64。次男の弘久が後を継いだ。

脚注

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注釈

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  1. ^ 現在の山口県山口市上宇野令下宇野令
  2. ^ 現在の山口県岩国市美和町生見
  3. ^ 周防宇野氏は、大内弘貞の子である大内貞長の次男・宇野清致が周防吉敷郡宇野を与えられ、その在名を取ったことに由来する。元弘の養父に当たる宇野景政の末裔に山口県岩国市出身の作家・宇野千代がいる。

出典

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  1. ^ 『萩藩閥閲録遺漏』巻2の4「宇野与一右衛門」第2号、弘治3年(1557年)1月15日付、宇野八郎宛て毛利隆元加冠状。
  2. ^ 周東町史 1979, p. 210.
  3. ^ 『閥閲録』巻130「宇野源兵衛」第1号、天正6年(1578年)7月24日付け、宇野又右衛門尉(元弘)宛て毛利輝元宛行状。

参考文献

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  • 周東町史編纂委員会 編『周東町史』周東町、1979年3月。全国書誌番号:79033717  国立国会図書館デジタルコレクション
  • 萩藩閥閲録』巻61「宇野与一右衛門」、巻96「宇野忠右衛門」、巻130「宇野源兵衛」
  • 『萩藩閥閲録遺漏』巻2の4「宇野与一右衛門」