杉 隆泰(すぎ たかやす)は、戦国時代武将大内氏の家臣。父は杉貞泰(法名は宗珊)、子に杉鎮頼周防国鞍掛山城主。

 
杉隆泰
時代 戦国時代
生誕 大永5年(1525年
死没 弘治元年10月27日1555年11月11日
戒名 鐵真院殿享安元樹大居士
墓所 祥雲寺山口県岩国市玖珂町
官位 従五位下、治部大輔
主君 大内義隆義長
氏族 杉氏
父母 父:杉興頼
鎮頼
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生涯

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鞍掛杉氏は応永6年(1399年)に足利将軍家大内氏から、周防国玖珂郡を拝領した一族であった。杉隆泰は、平時は山口に出仕して大内氏の領国統治に従事し、所領の玖珂郡は影響下の国人衆に統治を委任していた。なお、の「隆」の字は主君の大内義隆から偏諱を賜ったものである。

天文19年(1550年)7月19日、従五位下叙任[1]

天文24年(1555年弘治元年)の厳島の戦いの後、毛利元就が周防国東部へ進出し、玖珂郡への侵攻を開始すると、隆泰はその矢面に立たされた。最初は毛利氏に臣従したものの、近隣の蓮華山城椙杜隆康との関係もあり、毛利氏の攻撃を受けた。隆泰は居城の鞍掛山城に籠っていた際に奇襲に遭い、防戦に努めるも、ついに鞍掛山城は落城。隆泰は父の宗珊と共に討死した(鞍掛合戦)。享年31。法名は鐵真院殿享安元樹大居士。墓所は鞍掛山城の麓にある祥雲寺。

嫡子の専千代丸は、豊後国の戦国大名・大友義鎮(宗麟、大内義長の実兄)の許へ逃亡。一字を拝領して杉鎮頼と名乗り、天正6年(1578年)の耳川の戦いで戦死するまで、大友氏家臣として仕えた。

脚注

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注釈

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  1. ^ 歴名土代群書類従22巻419頁収録、内外書籍
  2. ^ 神本正律『杉隆泰家系の検考譚』山口県地方史学会〈山口県地方史研究 (77)〉、1997年6月、40頁https://dl.ndl.go.jp/pid/7933651/1/22 

関連項目

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