大日本恵登呂府
大日本恵登呂府(だいにほんえとろふ、大日本恵土呂府とも表記される)は、寛政10年(1798年)と同12年(1800年)の2度にわたり、幕臣で探検家の近藤重蔵らによって択捉島内の2か所(南端に近いタンネモイ、北端のカモイワッカ岬(「カモイワッカ」は「カムイワッカ」とも記す)に建てられた標柱。
概要
編集ロシア帝国の勢力が初めて得撫島に来て、長期間滞在し、なおかつ越年したのは、明和3年(1766年)のことであった[1]。ただし、このときは住民の反抗もあって翌年彼らはロシア本国に帰った[1]。その後、ロシア勢力はしばしば千島列島に進出して、現地の人々との間に衝突が絶えなかった[1]。仙台藩医工藤平助の著作『赤蝦夷風説考』(1783年、老中田沼意次に献上)などによりロシア人の活発な進出を知った江戸幕府は、みずから北方の島々の経営に乗り出すこととし、天明5年(1785年)と寛政3年(1791年)、最上徳内らを千島地域の調査に派遣した[1][2][注釈 1]。最上徳内は、国後島から択捉島に渡ってロシアの南下の状況を精査し、さらに得撫島に上陸して同島以北の諸島の情勢も調査した[1][2]。
寛政8年(1796年)8月、イギリスの海軍士官ウィリアム・ブロウトンの指揮するプロヴィデンス号が内浦湾内に停泊する事件が起こった[4][5]。幕府はこれに衝撃を受け、見分役を松前に派遣して東蝦夷地の調査を行った[4]。調査の結果、イギリス船は単なる「漂流」であり、密輸もなく、特別な問題はないとされた一方、測量を行っていたことは周知されていた[5]。ブロウトンの船は翌寛政9年7月にはまたエトモ(いまの室蘭市周辺)に「漂着」、閏7月には松前沖にあらわれた[4]。松前藩兵が警備を強化したのですぐに退去したが、幕府は警固の必要性を痛感した[4]。松前藩の命令により、エトモに接近したイギリス船を訪船した工藤平右衛門によれば、ブロウトンは南部藩領、仙台藩領、房総半島などで測量図をつくり、陸奥国宮城郡松島周辺の地図や長崎から江戸までの路程図なども持っている様子であった[5][注釈 2]。幕府は危機感をつのらせた[4][5]。
江戸幕府は、国防上の観点から千島列島、樺太島を含む蝦夷地を直轄地(天領)として支配下に置くことも考慮し、寛政10年(1798年)、近藤重蔵(守重)らによる北方調査の意見書を受け入れ、大規模な巡察隊を同地方に派遣することとした[1][2][4][注釈 3]。幕府は寛政10年4月、目付の渡辺胤(久蔵)、使番頭の大河内政壽(善兵衛)、勘定吟味役の三橋成方(藤右衛門)に松前への出張を命じた[4][5][7]。180名から成る大人数の調査隊が編成され、蝦夷地の大規模調査が行われることとなった[4]。調査は蝦夷地の巡見のみならず、松前藩もその対象となった[5]。これに先立ち、松前藩が抜け荷をしているという疑いも持たれていたのである[4]。調査は松前藩の財政、家中人別、蝦夷交易の収納、農地開発適地の調査なども含んでおり、蝦夷地上知(幕領化)も視野に置かれていた[5]。渡辺・大河内・三橋の3名は責任者として蝦夷地に赴き、5月に福山(松前)に到着すると、渡辺はここに留まり、大河内は東蝦夷地、三橋は西蝦夷地に分かれて巡回し、現地の状況を巡察して、11月半ばに江戸に戻って復命した[4][7]。
松前蝦夷地御用取扱に任じられた近藤重蔵はこのとき、大河内隊の別動隊として最上徳内を案内として国後島と択捉島を調査し[4][7]、択捉島の南端に近いタンネモイ(丹根萌)に、アイヌのエカシ(乙名)の了解のもと「大日本恵登呂府」の国標(木柱)を建てた[1][2][8][9][10][注釈 4]。
標柱の文字は、
大日本惠登呂府 寛政十年戊午七月 近藤重蔵 最上徳内従者 下野源助 善助 金平(以下略)
というものであり、水戸藩より派遣された木村謙次によって書かれた[10]。標柱に記された「下野源助」とは木村謙次の変名であったが、木村は近藤の従僕という資格で択捉入りしたところから、本名を名乗るには差しさわりがあったのである[10]。木村は自らの日記(『蝦夷日記』)に、日本本土の方を向いて伊勢神宮と京都の天皇を拝し、鹿島神宮、江戸幕府将軍、水戸藩主を拝し、三退して恩師の立原翠軒を拝し、謹んで標柱の文字を書いたと記している[10]。『蝦夷日記』によれば、木村は従者として12名のアイヌの名前も書いている[11]。これは、近藤重蔵の指示によるものと考えられるが、近藤は、アツケシ神明社修復の際も、願文の最後に「アツケシ蝦夷サンクンギ彫」とアイヌの名を書いており、従者や協力者に対してはそれなりの待遇で接し、異民族だから排除するようなところはなかった[11]。ただし、標柱記載の12名のアイヌは、名前を和名に改名した者に限られており、改名していない従者は標柱に名前が記されなかった[11]。標柱が建てられたのは寛政10年7月28日であった[10]。その内容は、択捉島が日本国の領域内にあることを明快に宣したものであった[9]。
寛政11年(1799年)、東蝦夷地仮上知(1802年以降は永上知)が断行された[2][4][5][12][注釈 5]。近藤重蔵が蝦夷地幕領化論を強固に唱え[13]、幕府側もそれを受けて蝦夷地経営と対ロシア政策が単に松前藩一藩だけの問題では済まされないという判断を下したからであった[2][注釈 6]。以降、幕府は択捉・国後の両島に津軽藩・南部藩の藩士500名ずつを派遣させ、防衛警備にあたらせた[2][5][14]。
1799年から1800年にかけて、近藤重蔵は商人高田屋嘉兵衛に択捉行きの航路を開かせ、嘉兵衛らとともに再び国後島・択捉島に渡り、択捉島に本土の行政制度を移入した[1][15]。すなわち、7郷25か村から成る郷村制を施いて幕吏を常駐させ、蝦夷を「村方」と呼ばせて日本の風俗を勧めた[1][2][5][14][15][注釈 7]。役職のあるアイヌ(役蝦夷)が住民1,118人を調べて宗門人別改帳(恵登呂府村々人別帳、当時の戸籍)を作成した。また、17か所の漁場を開いて漁法を伝授するとともに、島のアイヌに対しては漁網や漁具、物品を提供した[1][2][14][15][18][注釈 8]。漁場を開発したのは、南部下北郡出身の寅吉らであった[19]。1800年、国後場所から新たに択捉場所が分立され、「エトロフ会所」が振別郡老門に開設された[14]。択捉島を含む東蝦夷地では、アイヌの人びとの不満の種となっていた場所請負制が廃止されて直捌制となり、交易の際には幕吏が立ち会い、商取引における不正を防止することとした[12][20]。漁業も対アイヌ交易も幕府の直営するところとなった[5]。幕府にとって択捉島は異国境の最前線と認識されており、ロシアへの対抗上、とりわけ中身の濃い撫育が試みられた地域であり、下賜する物品も充実していた[19]。
近藤重蔵から相談を受け、国後・択捉までの航路を苦労して開拓した高田屋嘉兵衛は[21]、1800年(寛政12年)8月、近藤とともに択捉島北端のカモイワッカオイの丘に改めて「大日本恵登呂府」の標柱を建てた[9][注釈 9][注釈 10]。このとき木村謙次は近藤らに同行していないものの、北海道史学者の河野常吉は、のちに発見された木村の日記などから、寛政10年8月に木村が書き置いていたものを翌々年に建てたものだろうと推定している[10][注釈 11]。
標柱の周辺
編集天長地久大日本属島
編集1799年の東蝦夷地上知にともない赴任した幕臣の富山元十郎(保高)は、享和元年(1801年)、択捉島と得撫島を調査して、得撫島に「天長地久大日本属島」と記した標柱を建てている[23]。なお、このとき、トウボにおいてロシア人ケレトフセから同地の事情を聴取している[23]。河野常吉は、しばしばこの標柱と寛政12年に択捉島カモイワッカオイに建てられた標柱が混同されたことを指摘している[10]。
大日本地名アトイヤ
編集カモイワッカオイを含む地域は安政6年(1859年)以降、仙台藩の警護するところとなったが、この時、藩士のなかの有志が「大日本地名アトイヤ」と書いた標柱を建てたといわれている[10]。これについて、文部省の官吏で歴史家の重田定一は「アトイヤ」なる地名は国後島にもあり、この標柱は国後島に建てられたものではないかという説を唱えた[10]。河野常吉はこれに対し、アトイヤの地名は択捉島のカモイワッカ東方にもあり、両者は近接するとはいえ、カモイワッカは「神の水」、アトイヤは「渡海場」(ないし「日和待ち」)を意味する別の地名であることを示し、これを批判している[10][注釈 12]。いずれにせよ、1875年(明治8年)の樺太千島交換条約によって千島全島が日本の領土となると、翌1876年(明治9年)、当地を巡察した時任為基(薩摩藩出身)はその帰途、「大日本地名アトイヤ」の標柱を持ち帰ったといわれる[注釈 13]。
昭和の記念碑
編集1930年(昭和5年)、カモイワッカオイに建てられた「大日本恵登呂府」の標柱が朽ち果ててしまったとして、北海道庁が択捉島蘂取村の大沢村長に新しく作り直すことを依頼した。村では御影石で記念碑を建てることとし、本土に制作を発注した。石碑は船で運搬され、公務員を主とする択捉島民の手で蘂取村カモイワッカ岬に「大日本恵登呂府」昭和の記念碑が建てられた。この記念碑は、1945年(昭和20年)まで現地に存在していたことが確認されているが、それ以降は確認されていない。
脚注
編集注釈
編集- ^ 工藤平助は『赤蝦夷風説考』のなかでロシアの蝦夷地進出の実情を報告し、蝦夷地の沿革や開発の必要性、さらにロシアとの交易を説いた[3]。田沼は本書をきっかけに蝦夷地開発計画を立てたといわれるほど、その影響は大きいものであった[3]。天明6年(1786年)には林子平がロシアのシベリア進出の動向を日本の危機ととらえる『海国兵談』を著し、海防の必要を説いている[3]。
- ^ ブロウトン探検隊は、シベリア東端、日本の太平洋沿岸、琉球列島、台湾、朝鮮半島、沿海州を広範囲に調査し、外国船としては初めて津軽海峡を横断した[6]。
- ^ 幕府としては、鰊粕などニシン肥の普及などにより蝦夷地の経済的価値が高まっていることも、探検の動機となりうるものであった[6]。
- ^ 近藤重蔵は、北方調査の成果を『辺要分界図考』として著している[8]。
- ^ 江戸幕府による蝦夷地幕領化は、(1)1799年から1806年までの東蝦夷地(浦河郡以東、太平洋側から知床・国後に至る地域)の上知、(2)1807年から1821年までの松前地(和人地)・西蝦夷地(日本海・オホーツク海側)の上知、という2段階で実施された[13]。
- ^ 近藤重蔵は、琉球支配を認めた薩摩藩への朱印状とは異なり、幕府が松前藩に発給した朱印状・黒印状には蝦夷地の領有を認めたものは全くないので蝦夷地公領化は充分に法的根拠を有していると主張した[13]。
- ^ アイヌへの同化政策は、従来の和語(日本語)禁止ではなく、和語奨励であり、かな文字を教え、和人風の氏名に改めさせたり、衣服を日本風にするなどであったが、帰俗の証として特に重んじられたのが頭髪を結ぶ、髭を剃る、入れ墨をやめるなどの身体風俗であった[14][16][17]。また、穀食を勧め、徐々に耕作をおこなうことも奨励された[17]。
- ^ 島のアイヌはそれまで、獣の皮革や鳥の羽毛で衣服をつくり、鍋なども数戸に1戸しかなく、漁具はヤスしかなかったという[14]。総じて彼らはきわめて貧困であった[14]。
- ^ このとき、カモイワッカ岬近くの丘にロシア人が立てていた十字架は倒されたともいわれている[8]。ただし、河野常吉はこれを否定している[10]。
- ^ 淡路国の貧農に生まれた高田屋嘉兵衛は、北前船の交易によって資金を蓄え、自立した廻船業者となったが、東蝦夷地仮上知に際しては択捉島に漁場を開いたのち、本店を箱館において蝦夷地の豪商となった[12][21]。嘉兵衛は、文化7年(1810年)には択捉場所の請負を命じられた[21]。文化8年(1811年)、国後島に上陸したロシア軍艦の艦長ヴァシーリー・ゴロヴニーンは、日本の警備兵に捕縛されて箱館・松前に収監された[12]。これに対し、ロシアは報復として嘉兵衛を抑留した[12]。嘉兵衛は文化10年(1813年)に送還され、彼の尽力でゴロヴニーンが釈放され、ゴローニン事件は解決した[12]。なお、蝦夷地経営が江戸幕府や警固担当の諸藩の財政を圧迫するようになり、松前藩が粘り強く復領運動を展開したこともあって、1821年(文政4年)、全蝦夷地が松前藩に返還された[12][22]。それにともない、西蝦夷地のみならず東蝦夷地でも場所請負制へ回帰していった[12]。
- ^ こののち、享和2年(1802年)には、蝦夷地の統括機関としての蝦夷奉行(同年、箱館奉行と改称)が設置され、翌3年には、ロシア人との接触を避けるため、アイヌの得撫島への出稼ぎが禁止された[20]。
- ^ 河野は、さらに国後島北東部と択捉島北東部には、シベトロ(シベトロベツ) - カモイワッカオイ(ワッカオイ) - アトイヤ という類似の地名が西から東に向け、同様に並んでいることを指摘している[10]。
- ^ 「大日本地名アトイヤ」の標柱は、1879年(明治12年)に函館博物館開設の際、同館で陳列し、1892年(明治25年)以降は函館商業学校、同校廃校後は函館中学校が管理した[10]。その後、函館市北洋資料館の収蔵品となっている。柱は根元より切り取られており、長さ6尺7寸5分(約204.5センチメートル)、幅6寸2分(約18.8センチメートル)、厚さ3寸4分(約10.3センチメートル)で土中にあった部分の長さ等は不明である[10]。
出典
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参考文献
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- 田端宏「4章 クナシリ・メナシの戦いと蝦夷地幕領化」『北海道の歴史』山川出版社〈新版県史シリーズ1〉、2000年9月。ISBN 978-4-634-32011-6。
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関連項目
編集外部リンク
編集- 河野常吉「國後擇捉の建標に關する斷案」『札幌博物学会会報』第4巻第1号、札幌博物學會、1912年9月、43-50頁、NAID 120006774209。