三橋 成方(みつはし なりみち、寛延4年(1751年) - 天保9年(1838年))は、江戸時代後期の旗本。通称は藤右衛門。官位は従五位下飛騨守。采地は四百石。

 
三橋 成方
時代 江戸時代
生誕 寛延4年(1751年
死没 天保9年(1738年
別名 藤右衛門
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重家治家斉
父母 荻原友明(実父)、三橋成烈(養父)
三橋成烈の娘(先妻)、田辺庸広の娘(後妻)
斧五郎、健次郎
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来歴

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萩原藤七郎友明の三男として生まれ、三橋成烈の婿養子となる[1]寛政3年(1791年)10月17日大番となり、同年12月29日に家督相続[1]。寛政4年代官となり、寛政6年職を辞して、寛政7年12月小普請組頭となる[1]。寛政8年(1796年)3月8日勘定吟味役に昇進し、同12月19日に布衣を着ることを許された[1]

寛政10年(1798年)幕府はロシアの南下を受けて180名からなる蝦夷地巡察隊を組織し、成方は責任者として目付渡辺胤(つづく)、使番大河内政壽(まさこと)とともに蝦夷地へ派遣された(続徳川実紀第一編、寛政十年四月朔日の条)[2][3][4][5]。大河内の配下には近藤重蔵最上徳内らがおり、東蝦夷地を探検して国後島択捉島に渡った[2][4][5][注釈 1]。三橋隊は26名で編成され、西蝦夷地の巡見を任された[4][5]宗谷を訪れた際、旅の便宜を図った礼として宗谷・天塩アイヌ170人強を招いたが、武藤勘蔵『蝦夷日記』によれば、アイヌたちは三橋を「カムイトノ」とあがめ、その繁栄を祈り、歌い踊ったという[5]。帰りは天塩川を遡って石狩川上流を経て内陸部を視察し、11月半ばに江戸に戻った[4]。翌寛政11年1月蝦夷地取締御用掛を命じられ、同12年4月から9月まで箱館へ赴き指揮を執った[4]

その後、文化8年(1811年)に京都西町奉行に転任し、文化12年(1815年)まで務めた。

家族

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妻は三橋成烈の娘。後妻は田辺清右衛門庸広の娘。長男は、三橋斧五郎。次男は嫡子で、三橋成文(通称・健次郎、母は庸広の娘)。成文の嫡孫に三橋成潔(通称・彦五郎)らがいる。

登場作品

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脚注

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注釈

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  1. ^ 近藤重蔵・最上徳内が択捉島タンネモイ(丹根萌)に「大日本恵登呂府」の木柱を建てたのは、このときであった[3][6]

出典

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参考文献

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  • 井上勝生『日本の歴史18 開国と幕末変革』講談社講談社学術文庫〉、2009年12月(原著2002年)。ISBN 978-4-06-291918-0 
  • 賀川隆行『日本の歴史11 崩れゆく鎖国』集英社、1992年7月。ISBN 4-08-195014-8 
  • 田端宏「4章 クナシリ・メナシの戦いと蝦夷地幕領化」『北海道の歴史』山川出版社〈新版県史シリーズ1〉、2000年9月。ISBN 978-4-634-32011-6 
  • 『寛政重脩諸家譜』第6輯、國民圖書、1923年、257頁。
  • 『寛政譜以降旗本家百科事典』第5巻
  • 『藤岡屋日記』第6巻 197頁
  • 『江戸幕府旗本人名辞典』第3巻
  • 『續徳川實紀: 第1篇』 寛政十年四月朔日の条
  • 『續徳川實紀: 第2篇』 五十九 文政七年十二月朔日の条
  • 新人物往来社編『伊庭八郎のすべて』新人物往来社、1998年