大岡忠與
日本の江戸時代中期~後期の大名。播磨安志藩2代藩主小笠原長逵四男で、三河西大平藩3代藩主大岡忠恒婿養子。西大平藩4代藩主(大岡忠世家6代当主)。従五位下越前守
大岡 忠與(おおおか ただとも)は、三河西大平藩第4代藩主。大岡忠世家6代当主。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 宝暦9年(1759年)[1]または宝暦4年(1754年)[2]または宝暦5年(1755年)[3] |
死没 | 天明6年10月17日(1786年11月7日) |
改名 | 匡之丞(幼名)、小笠原忠與、大岡忠與 |
別名 | 忠右衛門、忠与 |
戒名 |
顕誉性本完達院 完達院顕誉自覚性本[4] |
墓所 | 浄見寺 |
官位 | 従五位下・越前守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 三河国西大平藩主 |
氏族 | 源姓小笠原氏→藤原姓大岡氏 |
父母 |
父:小笠原長逵、母:小林氏 養父:大岡忠恒 |
兄弟 |
長為、忠苗、政宣、忠與、 女子(水野勝起継室) |
妻 | 正室:大岡忠恒の養女(大岡忠宜の娘) |
子 | 養子:忠移 |
西大平藩第3代藩主・大岡忠恒の養女を娶り、その養子として迎えられ、天明4年(1784年)に忠恒の隠居により家督を譲られる。同年、10代将軍徳川家治に御目見して従五位下・越前守に叙任するが、その2年後の天明6年(1786年)に死去した。
忠與には男児がおらず、家督は忠恒の次男の忠移が養子として継いだ。
系譜
編集父母
正室
養子