大岡忠宜

日本の江戸時代中期の大名。三河西大平藩初代藩主大岡忠相次男で、西大平藩2代藩主(大岡忠世家4代当主)。従五位下紀伊守・能登守・越前守。大番頭・御小姓組を勤めた

大岡 忠宜(おおおか ただよし)は、江戸時代中期の旗本大名三河国西大平藩2代藩主。大岡忠世家4代当主。忠宣ともいうが、誤記とされる。官位従五位下紀伊守能登守越前守

 
大岡忠宜
時代 江戸時代中期
生誕 宝永6年(1709年
死没 明和3年8月26日[1]1766年9月29日
改名 求次郎(幼名)、忠宜
別名 忠右衛門、忠宣
戒名 輭光院
墓所 窓月山浄見寺
官位 従五位下紀伊守能登守越前守
幕府 江戸幕府 西丸小姓組番士、本丸小姓組番士、大番頭
主君 徳川吉宗家重
三河西大平藩
氏族 大岡氏
父母 父:大岡忠相、母:市川氏[2]
兄弟 市十郎忠宜新三郎中川忠利[3]中山時庸
正室:松平近禎養女[4]
小瀬氏
忠豫忠恒水野忠体室、堀田正貫室、斎藤利兼室、大岡忠恒養女
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経歴

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西大平藩初代藩主となった大岡忠相の次男として誕生した。兄の市十郎が早世したことにより世子となり、父の忠相と共に8代将軍・徳川吉宗に仕えた。享保8年(1723年)に将軍吉宗に初めて御目見する。

享保11年(1726年)、江戸城西丸小姓組番士となる。享保19年(1734年)、従五位下・紀伊守に叙任の上、江戸城本丸小姓組番士に異動となった。延享4年(1747年)、小姓組番士を辞し、菊間広縁詰となる。宝暦2年(1752年)の12月に父・忠相が死去し、同年に家督を相続する。越前守に転任し、大番頭に就任。明和2年(1765年)、長男の忠豫を廃嫡し、次男の忠恒を後継とした。

明和3年(1766年)、大番頭を辞し、同年に江戸藩邸で死去した。享年58。跡を忠恒が継いだ。

系譜

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父母

正室

側室

  • 小瀬氏

子女

脚注

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  1. ^ 『系図纂要』では8月25日
  2. ^ 寛政重修諸家譜
  3. ^ のち島津久芬
  4. ^ 松平近苗の娘

登場する作品

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