増山正贇
増山 正贇(ましやま まさよし)は、江戸時代中期の大名。伊勢長島藩の第4代藩主。長島藩増山家5代。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保11年12月26日(1727年1月17日) |
死没 | 安永5年4月5日(1776年5月22日) |
改名 | 仙五郎(幼名)→匡幸→正順→正孝→正贇 |
戒名 | 相厳院殿深達覚道大居士 |
墓所 | 東京都台東区上野の勧善院 |
官位 | 従五位下、対馬守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家重→家治 |
藩 | 伊勢長島藩主 |
氏族 | 毛利氏→増山氏 |
父母 |
父:毛利匡広、母:性春院 養父:増山正武 |
兄弟 | 慧照院(増山正武正室)、毛利師就、毛利政苗、毛利匡敬、正贇 |
妻 |
正室:美代姫(法輪院、細川利恭の娘) 側室:朝倉氏(湯樹院) |
子 | 正賢、正邦(次男)、白須政雍(四男)、小出英俊、正聴、松平定慮、松平定諡(八男)、千勢(高木貞威室)、菊(戸田氏紹正室のち酒井忠敬室)、定(増山正備正室)、富(佐藤信顕正室)、季支(白須政雍養女、都築安富室) |
生涯
編集享保11年(1726年)12月26日、長門長府藩主・毛利匡広の十一男として生まれる。幼名は仙五郎、千五郎。延享元年(1744年)3月11日、第3代藩主・増山正武の養子となる。正武の正室・慧照院は正贇の姉であった。また、自身の養子縁組以前に正武の養女(実父は本多忠辰)と婚約していたが、その養女は結婚前に死去している。延享3年(1746年)9月1日、将軍徳川家重に御目見する。同年12月18日、従五位下・対馬守に叙任する。延享4年(1747年)8月5日、養父の死去により跡を継いだ。明和2年(1768年)10月28日、奏者番に就任する。安永5年(1776年)1月29日、辞職する。
宝暦4年(1754年)から木曽川、伊尾川一帯の治水工事(宝暦治水)を行なう。しかし天災、大火事などが相次ぎ、あまり効果はなかった。また、多くの文化人を招聘して、文学の発展に尽力した。安永5年(1776年)4月5日に死去した。享年51。跡を長男の正賢が継いだ。
系譜
編集父母
正室
- 美代姫、法輪院 - 細川利恭の娘
側室
- 朝倉氏(湯樹院)
子女