口羽 通平(くちば みちひら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将毛利氏の重臣・口羽通良の長男である口羽広通の嫡男[1]

 
口羽通平
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永禄5年(1562年[1]
死没 文禄2年3月9日1593年4月10日[1]
別名 通称:善九郎[1]→新左衛門尉[1]
墓所 口羽家墓所(島根県邑智郡邑南町下口羽)
官位 刑部大輔[1]
主君 毛利輝元
氏族 大江姓毛利氏庶流口羽氏[1]
父母 父:口羽広通[1]、母:大嶋某の娘[1]
正室:深瀬隆兼の娘[1]
継室山内元興の娘[1]
元通[1]、長女(阿曽沼就郷室)[1]、次女(梨羽景宗室)[1]、三女(中川元寄室)[1]末国元貞[1]
テンプレートを表示

生涯

編集

永禄5年(1562年)、毛利氏の重臣である口羽通良の長男・口羽広通の子として生まれ、毛利輝元に仕える。

父・広通は天正6年(1578年)の4月から7月にかけて行われた上月城の戦いの最中である4月24日に死去し、その後を継いだ。

天正13年(1585年)の四国征伐においては小早川隆景の軍に加わり、伊予国へ出陣した。同年7月15日金子元宅の守る高尾城攻撃において児玉元言真鍋家綱を討ち取る武功を立てたことに対し、通平は10月4日に元言に書状を送り賞賛している。

天正20年(1592年2月15日安国寺恵瓊福原広俊渡辺長穂井田元清と共に備中国草壁庄横谷船木山洞松寺に宛てて打渡状を発給した[2][3]

同年4月から始まる文禄の役では、叔父の春良と共に毛利輝元に従って朝鮮へ渡海した。しかし、朝鮮では豊臣秀勝をはじめとして慣れない朝鮮の風土から病にかかる者が続出し、輝元や春良も病により開寧に留まることとなる。この事態に対して曲直瀬玄朔京都から派遣されて豊臣秀勝や輝元らの治療にあたった。曲直瀬玄朔の診療と、開寧に留まっての養生によって輝元の病は幾分快方へと向かったが、春良は同年10月11日に開寧の陣中で病没。翌文禄2年(1593年3月9日には通平も朝鮮の陣中において32歳で病死し、子の元通が通平の後を継いだ[1]

子の元通は関ヶ原の敗北後の慶長5年(1600年)の毛利氏の防長移封に従って長門国萩へ移住し、後に江戸詰めとなった。慶長19年(1614年8月12日に江戸で病死した[1]。若くして死去したため子は無く、その所領は口羽春良次男の元智に引き継がれた。

系譜

編集

脚注

編集

注釈

編集

出典

編集
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 252.
  2. ^ 天正20年(1592年)2月15日付け、備中船木山洞松寺宛て、安国寺恵瓊・(福原)式部少輔広俊・(渡辺)飛騨守長・(口羽)刑部太輔通平・(穂田)伊予守元清打渡状。
  3. ^ 笠岡市史 史料編 中巻 2001, pp. 133–135.

参考文献

編集
  • 防長新聞社山口支社 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060  国立国会図書館デジタルコレクション
  • 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修『毛利輝元卿伝』マツノ書店、1982年1月。全国書誌番号:82051060  国立国会図書館デジタルコレクション
  • 笠岡市史編さん室 編『笠岡市史 史料編 中巻』笠岡市、2001年6月。全国書誌番号:20181411  国立国会図書館デジタルコレクション
  • 山口県文書館編『萩藩閥閲録』巻32「口羽衛士」