児玉元言
児玉 元言(こだま もとのぶ)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将。毛利氏の家臣。父は児玉元茂。
時代 | 戦国時代 - 江戸時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 元和元年7月7日(1615年8月30日) |
別名 | 通称:与次郎、四郎右衛門 |
官位 | 隠岐守 |
主君 | 毛利輝元→秀就 |
氏族 | 児玉氏 |
父母 | 父:児玉元茂 |
子 | 就茂 |
生涯
編集毛利氏の譜代家臣の児玉元茂の子として生まれ、天正6年(1578年)4月13日に父から所領を譲られた。
天正13年(1585年)の四国征伐においては小早川隆景の軍に加わり、伊予国へ出陣した。同年7月15日、金子元宅の守る高尾城へ攻撃を開始し、元言は真鍋家綱を討ち取った(高尾城の戦い)。この武功に対し、毛利氏家臣の口羽通平は10月4日に元言に書状を送り賞賛している。
慶長14年(1609年)5月11日、児玉与一郎(子の就茂か)が成人するまで当知行200石の地を預かり、与一郎の養育をするよう毛利輝元に命じられる。
元和元年(1615年)7月7日に死去し、嫡男の就茂が後を継いだ。元言の知行のうち、周防国熊毛郡遠免村148石5斗余りの地は、元和2年(1616年)5月1日に就茂が相続し、周防国都濃郡須々万村50石と長門国豊田郡島戸村50石の地は、寛永4年(1627年)2月17日に就茂の子の就次に与えられた。