根城南部氏~三戸南部氏移行への歴史年表では、南部氏及びその支配した領域、盛岡藩及び八戸藩等に関する歴史事件等を年代順に並べて表記する。

鎌倉時代~戦国時代

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南部氏が北奥羽で本格的な活動を開始するのは、南北朝争乱の頃からである。
元弘3年(1333年)5月に鎌倉幕府が滅亡して、後醍醐天皇による建武の新政が始まり、鎮守府将軍に任じられた足利尊氏には北条泰家の遺領である外が浜糠部郡を与えた。尊氏が離反すると鎮守府将軍職は北畠顕家に移り、陸奧守として義良親王を奉じて多賀城国府に赴任し、随行した根城南部氏第3代の南部師行が北奥各郡の検断・奉行として任じられた。

1189年 文治 5年 奥州平泉攻撃
1215年 建保 3年 11月 21日 南部光行、鎌倉で死去。
1322年 元亨 2年   安藤氏の乱
1324年 4年   正中の変
1333年 正慶 3年 5月 南部政長、新田義貞の鎌倉攻めに加わり、その功により、甲斐国倉見山、陸奥国糠部郡七戸郷を与えられる。その後陸奥国に下向する。
  後醍醐天皇、北条氏滅亡を受けて京都に帰り、北畠顕家を陸奧守に任じる。
1334年 建武元年   建武の新政
  南部師行糠部郡郡奉行郡検断を兼ねる国代として任じられる。
  大光寺合戦
1335年 2年 3月 南部師行、北条得宗領の外ヶ浜内摩部郷(現青森市)のうち、泉田、潮方(後潟)、中沢を与えられる[1]
7月 北条時行が兵を挙げ、鎌倉に入る。(中先代の乱
10月 足利尊氏が鎌倉で反旗を翻すと、曾我氏安藤家季以下安藤氏一族も呼応[1]
1336年 建武 3年 延元元年) 足利尊氏の御教書を受けた安藤家季が合戦奉行となる。津軽曾我氏などがそれに従い、藤崎城、平内城の南朝方の軍勢と戦う[1]
1338年 暦応元年 (   3年) 5月 北畠顕家・南部師行ら、和泉国石津で討死。(石津の戦い
1339年 2年 (   4年) 8月 後醍醐天皇、吉野において崩御。義良親王が帝位を継がれる。
1340年 3年 興国元年) 12月 南部政長根城南部氏第5代当主となる[2]
1341年 4年 (   2年) 栗谷川の合戦、宮方勢、岩手斯波両郡を制圧。
6月 津軽の曾我氏と糠部郡の南部氏の間で抗戦が始まる。
1343年 康永 2年 (   4年) 陸奧国司北畠顕信、滴石(雫石)に逃げる。
1352年 文和元年 正平 7年) 南部信長、多賀府中合戦に出陣中に北朝方に転じる。
1373年 応安 6年 文中 2年) 南部守行、一族を伴って糠部に下る。(三戸南部の糠部定着)
1386年 至徳 3年 (   3年) 11月 北畠氏、「奥州新国司」を自称して浪岡に入部。[3]
1392年 明徳 3年 元中 9年) 閏10月 南北朝合一。
1393年 4年   根城南部氏第8代当主の南部政光、甲斐の本領を室町幕府に返上、根城に移住する。
1407年 応永14年 4月 根城南部氏第10代当主の南部光経、修理亮に推挙。
18年 南部守行、八戸南部氏と共同で仙北刈和野安東鹿季と合戦、領地を確保。(秋田合戦)
1417年 24年 北畠氏の仲介により安東領と南部領の領境を定める[4]
1418年 25年 8月 南部氏、上洛。馬100疋、金1000両を将軍に献上。
1428年 正長元年 十三湊、南部勢に掌握される[4]
1432年 永享 4年 10月 南部義政藤崎城を攻める。敗れた安藤盛季康季蝦夷地に敗走、幕府が調停する。
1435年 7年 和賀惣領家と須々孫氏の内訌(和賀・稗貫の動乱)
1437年 9年 関東地方で発生した永享の乱の影響により、奥州においても葛西氏大崎氏が合戦を始める(永享・嘉吉の乱)
1440年 12年 結城合戦
1442年 宝徳 2年   安藤盛季・康季、南部義政のため十三湊を追われる。翌年12月、小泊から蝦夷地松前に逃れる。
1451年 嘉吉 3年 蠣崎蔵人信純、錦帯城を築く[4]
1452年 享徳元年 武田信広、田名部・蠣崎の知行を許され、蠣崎氏と名乗る[5]
1453年 2年 津軽安東氏第9代義季が、再び南部軍と戦い討死。その養子の第10代政季が南部氏の捕虜となり、下北に配流。のちに再び蝦夷地に逃避[4]
1455年 3年 享徳の乱
1456年 康正 2年 4月 糠部南部義政、秋田に出陣、湊安東氏と交戦、南部方敗退[2]。(秋田高寺合戦)
1457年 3年 2月 陸奧の田名部において蠣崎蔵人の兵乱起る[2]
2月 根城南部氏南部河内守政経、兵船をもって田名部に進攻[2]
4月 田名部一帯が南部政経により制圧され、蠣崎蔵人、蝦夷地に逃れる[2]
4月 南部政経、軍功により田名部全土を所領に加えられる[2]
1467年 応仁元年 1月 京都に攪乱起る。(応仁の乱
2月に (三戸)南部政盛は斯波政直の軍触によって、葛西氏秋田氏等と共に、信夫郡に征上、伊達・蘆名氏等と合戦したが兵糧が続かずに帰陣。
1468年 2年   南部家信、仙北支配を断念し三戸に撤退。
1477年 文明 9年 11月 応仁以来の兵乱略治まる。
1483年 15年   南部彦四郎の乱(『南部史要』)
1485年 17年 8月 南部政盛、葛西領気仙郡有住郷に侵入し敗績した。
1491年 延徳 3年   久慈南部光信を津軽西浜の鼻和郡種里城におく。
1498年 明応 7年   南部弾正康時が津軽外ヶ浜の堤浦(青森市)に入部[6]
1502年 文亀 2年   久慈光信、種里から大浦に進出し、大浦氏と名乗る。
1521年 大永元年 6月 志和郡郡山にて三戸南部氏と和賀氏の合戦。
1533年 天文 2年   南部安信の弟高信、津軽で起きた反乱を鎮圧。津軽郡代に任命。
1534年 3年 6月 大崎領内に内乱が惹起。大崎義直の族新田頼遠が主家に叛く。(大崎内乱)
  8月 三戸南部氏が北上地方に南侵し、柏山氏と合戦、敗退する[7]
1536年 5年 6月 大崎再乱。陸奥国守護職伊達稙宗は江刺左衛門督に対し大崎領袋中に出兵するよう申し送る。
10月 伊達稙宗の子・小僧丸が大崎高兼の娘を娶る形で養子として送り込まれ、大崎氏は伊達氏に従属したく。
1539年 8年   6月 家臣赤沼備中の放火により、本三戸城(聖寿寺館)が焼失。
  八戸義継、早世のため弟次郎(治義)が家を継ぐ。(八戸家内訌)
  7月 南部晴政、上洛し将軍足利義晴より偏諱を拝領。
1540年 9年   南部氏、雫石戸沢氏を攻めて、岩手郡より出羽仙北郡角館に走らせる。
1541年 10年   南部晴政、三戸南部家第24代当主となる。
1555年 弘治 元年 浪岡中将具永が死去。
1562年 永禄 5年 4月 浪岡具運、所領をめぐり叔父の川原御所具信と対立から川原御所の乱
1565年 8年 7月 鹿角郡及び比内郡においてに、南部氏と秋田安東氏との間で衝突。(鹿角合戦)
1569年 10年 正月 新田左馬助行政が卒去し、八戸政栄が出向いて会葬している留守を狙い、櫛引氏八戸根城城を襲撃。
1568年 11年 正月 安東愛季、鹿角郡に侵攻。長牛館を攻める。
3月 南部信直、晴信の陣代として鹿角出陣。
1569年 12年 南部晴政、鹿角を奪回。
1571年 元亀 2年 2月 大浦為信石川城攻略。石川高信、自害。
8月 八戸政栄、櫛引領に侵入。櫛引方は大敗。
1572年 3年 8月 田子城主南部左衛門尉高信、津軽三郡を平定。

安土桃山時代

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三戸(盛岡)南部家文書には中世三戸南部家の家伝伝書は伝えられておらず、信直以後の文書がその総てである。本来、盛岡南部家には膨大な史料が伝えられていたと考えられていたが、確認されているのは盛岡市中央図書館に所蔵されているもののみであり、1539年(天文 8年)本三戸城の炎上のさいに、類焼、多くを失ったとされている[8]

1573年 天正元年     三戸南部氏、厨川平野より南方に進出し、和賀氏と交戦。
1575年 3年 1月     大浦為信、大光寺城城攻略。
1578年 6年 7月     大浦為信、浪岡城攻略。浪岡御所北畠顕村は自害して浪岡氏、滅亡。
1581年 9年 6月     南部方の津軽郡代、石川城主南部高信が卒去。
    一戸城主一戸兵部大輔政連、子息一戸出羽と共に一戸信州に惨殺される。
1582年 10年 1月     南部晴政・晴継父子、相次いで死去。田子信直、三戸南部家第26代当主となる。
6月 2日     本能寺の変
7月     九戸政実、和賀郡侵攻。
1583年 11年 3月     秋田愛季、庄内平野の酒田に侵入後、比内に侵入して浅利氏を倒す。
    南部勢、志和郡東武、大萱生城にて合戦。
1585年 13年 3月     大浦為信、外浜油川城を攻略。油川城主奥瀬膳九郎、田名部ヘ逃れる。
5月     大浦為信、田舎館城を攻略。
1586年 14年     南部信直、加賀の前田利家に使者を遣わす。
    高水寺斯波氏の娘婿高田吉兵衛康実、斯波家を出奔。南部信直に出仕し、中野修理亮康実と改称。
9月     南部信直、雫石斯波氏を攻撃し岩手郡を手に入れる。
1587年 15年 2月     南部信直、北信愛を加賀の前田利家に派遣。
1588年 16年 6月     大浦為信、飯詰高楯城攻略。津軽一帯と外ヶ浜ならび糠部郡の一部を手中に収める。
7月     南部信直、志和郡に侵入し高水寺城を落とす。斯波氏滅亡。
1589年 17年     南部信直、秋田氏の同族争い(湊騒動)に乗じて北信愛を総指揮に比内に侵入占拠。
1590年 18年 3月     南部信直、小田原参陣、豊臣秀吉に謁見。
7月 27日     南部信直、宇都宮で秀吉より南部領の内7ヶ郡を安堵される。奥州仕置により、葛西・大崎領没収。
10月     葛西・大崎一揆和賀・稗貫一揆がおこる。
1591年 19年 3月 九戸政実の乱(九戸一揆)。
9月     九戸政実の乱鎮圧のため奥州再仕置軍下向。九戸城落城、九戸政実斬首。
1592年 20年     南部氏、領内諸城破却。(12城存置36城破却)
1597年 慶長 2年 3月     不来方(のち盛岡と改称)に築城を開始。
1599年 4年 10月 5日     南部信直、二戸郡福岡城で死去。
12月     南部利直、三戸南部家第27代当主、盛岡藩初代藩主となる。

江戸時代

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1600年 慶長 5年 7月   徳川家康の命により南部利直、最上に出陣。
9月   関ヶ原の戦い。和賀忠親、利直の留守中に和賀郡で一揆を起こす(岩崎一揆)。
1601年 6年 4月   南部利直、岩崎一揆を平定。
1603年 8年 2月 12日   徳川家康、征夷大将軍宣下。
1614年 19年 11月   大坂冬の陣
1615年 20年 4-5月   大坂夏の陣
1617年 元和 3年 3月   南部利直、八戸氏(根城南部氏)から下北の支配権を接収。
1627年 寛永 4年 3月   八戸直義(直栄)を八戸根城から遠野横田城へ陸奥国代として転封させて、遠野南部氏となる。根城は廃城となった。
    南部利直、八戸城築城。
1632年 9年     南部重直、第2代藩主となる。
1633年 10年     南部重直、盛岡城を居城と定める。
1634年 11年 8月   糠部郡が三戸二戸九戸の4ヶ郡に分割されて、徳川家光により、領内10郡10万石の領知判物拝領。
1643年 寛永20年 6月   閉伊郡山田浦にオランダ船来航。(ブレスケンス号事件
1664年 寛文 4年 9月   南部重直が、嗣子を定めず江戸で死去。
12月   幕府、重直の弟七戸重信に盛岡8万石(3代藩主)、中里数馬に八戸2万石を分割相続させ、八戸藩分立。
1668年 8年 8月 八戸領  南部直政、八戸藩第2代藩主となる。
1669年 9年 9月 盛岡領  シャクシャインの乱に対し、野辺地・田名部を警備。
1683年 天和 3年 5月 盛岡領  南部重信、幕府に届け出て高直しを願い出、10万石に復した。
1692年 元禄 5年 6月 盛岡領  南部行信、盛岡藩第4代藩主となる。
1694年 7年     南部行信は弟の政信に(麹町候)5,000石、同じく勝信に(三田候)3,000石を分知して、それぞれを旗本として出仕。
1699年 12年 5月 八戸領  南部通信、八戸藩第3代藩主となる。
1702年 15年   盛岡領  南部信恩、盛岡藩第5代藩主となる。
12月 24日 赤穂事件
1705年 宝永 4年   盛岡領  南部利幹、盛岡藩第6代藩主となる。
1716年 享保元年 10月 八戸領  南部広信、八戸藩第4代藩主となる。
1725年 10年   盛岡領  南部利視、盛岡藩第7代藩主となる。
1741年 寛保元年 12月   八戸領  南部信興、八戸藩第5代藩主となる。
1749年 寛延 2年   八戸領  猪・鹿の異常繁殖による猪飢饉
1752年 宝暦 2年   盛岡領  南部利雄、盛岡藩第8代藩主となる。
1755年 宝暦 5年 12月   旗本 南部利正、盛岡藩主南部利雄の養子となり、それにともない三田候3000石は廃家。
1765年 明和 2年 1月 盛岡領  尾去沢銅山を藩営化。
5月   八戸領  南部信依、八戸藩第6代藩主となる。
1774年 安永 3年     宝暦の大飢饉
1780年 9年 2月 盛岡領  南部利正、盛岡藩第9代藩主となる。
1781年 天明元年 2月 八戸領  南部信房、八戸藩第7代藩主となる。
1783年 3年     天明の大飢饉
1784年 4年   盛岡領  南部利敬、盛岡藩第10代藩主となる。
1793年 寛政 5年 2月   ラクスマン来航事件のロシア遣日使節との幕吏(宣論使)交渉の警護の幕命、盛岡・弘前両藩と共に松前で警護。
1795年 7年 11月 盛岡領  和賀・稗貫地方で大百姓一揆おこる。
12月 八戸領  久慈で百姓一揆おこる。
1796年 8年 八戸領  南部信真、八戸藩第8代藩主となる。
1797年 9年 10月   盛岡藩に松前警備の命が下る。
1799年 11年 1月   東蝦夷地収公(前期蝦夷地幕領期)にともない、幕府、盛岡・弘前両藩に箱舘守備を命ずる。
1807年 文化 4年 4月   エトロフ島に20数名のロシア人が発砲しながら上陸。応戦した盛岡藩士大村治五平は、負傷してロシア人に捕えられる。(文化露寇)
1808年 5年 12月 盛岡領  南部利敬、蝦夷地警備の功により、幕府によって領地加増を伴わない20万石への高直しが行われる。また、弘前藩も7万石から10万石へ石高を改める。
1812年 9年 盛岡領  武家屋敷地を「小路」、町人地を「町」と表記。
盛岡領  南部藩を盛岡藩に改称。
1817年 14年   七戸藩  盛岡藩からの分知旗本家(麹町候)当主・南部信鄰に新たに6,000石を支給し、七戸藩(盛岡新田藩)を立藩する。
1820年 文政 3年 9月 盛岡領  南部利用、盛岡藩第11代藩主となる。
12月 七戸藩  南部信鄰、盛岡新田藩初代藩主となる。
1821年 4年 4月 23日   相馬大作事件
12月   幕府、蝦夷地を松前藩に返還、盛岡・弘前藩等へ蝦夷地警備廃止。
1822年 5年 1月 七戸藩  南部信誉、七戸藩第2代藩主となる。
1825年 8年 9月 盛岡領  南部利済、盛岡藩第12代藩主となる。
1829年 12年 10月 八戸領  藩校文武講習所を新築落成。
1832年 天保 3年 4月   天保の飢饉が始まる。
1834年 5年 1月 八戸領  久慈の惣百姓一揆(稗三合一揆)。翌月、野村武一失脚。
1836年 7年 盛岡領  領内各地で百姓一揆おこる。(盛岡南方一揆)
1838年 9年 八戸領  南部信真、城主格となる。
1842年 13年 八戸領  南部信順、八戸藩第9代藩主となる。
1847年 弘化 4年 11月   盛岡領  三閉伊一揆おこる。
1848年 嘉永元年 6月   盛岡領  南部利義、盛岡藩第13代藩主となる。
1849年 2年 9月 盛岡領  南部利義、父利済の強訴により隠居。
10月 盛岡領  南部利剛、盛岡藩第14代藩主となる。
1853年 嘉永 6年 6月 盛岡領  嘉永の三閉伊一揆おこる。
1854年 安政元年 3月 3日   日米和親条約調印。
6月   幕府、松前藩より箱舘および周辺5-6里四方を上知(後期蝦夷地幕領期)、箱館奉行をおき、盛岡・弘前両藩等に蝦夷地警護を命ずる。
1855年 2年 盛岡領  箱館開港によって幕府に、箱館山岬恵山岬から幌別(登別市)までの沿岸警備を命じられる。
8月 盛岡領  新渡戸傳、三本木新田の御用掛となる。
1856年 3年 盛岡領  蝦夷地警護のため、砂原陣屋、モロラン出張陣屋を構築。
1858年 5年 七戸藩  南部信誉城主格となる。
1859年 6年 6月   幕府、蝦夷地を東北諸藩に分与、警備・開拓を行わせる。各藩の負担に配慮して警備地の一部の領有を認める。
1860年 7年 3月 3日 桜田門外の変
1862年 文久 2年 七戸藩  南部信民、七戸藩第3代藩主となる。
1867年 慶応 3年 10月 14日   大政奉還
12月 9日   王政復古の大号令

明治以降

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1868年 慶応 4年 1月   戊辰戦争
5月   奥羽越列藩同盟成立。
7- 9月   秋田戦争
8月   箱館戦争
1868年 明治元年 9月 8日   明治元年と改元。
1868年 9月 20日 盛岡藩降伏。
9月 23日 野辺地戦争
10月   総督府、東北平定宣言。
12月 7日 盛岡領  南部利剛、隠居差控を命じられ、盛岡藩20万石を幕府直轄地として没収。
17日 盛岡領  南部利恭、家名相続を許される。
24日 南部利恭、白石13万石宮城県)に転封。白石藩が発足
盛岡領  弘前藩津軽承昭、旧南部氏領域のうち、北郡三戸郡二戸郡の取締りを命じられる。
1869年 2年 1月 七戸藩  南部信方、七戸藩第4代藩主となる。
2月 9日   北郡、三戸郡、二戸郡の津軽氏の取締りに対し住民による反対運動がおきたため、下野黒羽藩栃木県那須)大関美作守の支配とした。
4月 26日   黒羽藩、三戸県を設置。
5月   五稜郭の旧幕府軍降伏、箱館戦争終結。
6月 17日   南部利恭、版籍奉還を許され、白石藩知事に任命。
22日   版籍奉還、南部信順、八戸藩知事に任命。
23日   楢山佐渡、盛岡・報恩寺において刎首。
24日   南部信方、七戸藩知事に任命。
8月 7日   南部利恭、旧領盛岡に復帰。
10日   南部利恭、盛岡藩知事。
11月   松平容大会津藩主)、陸奧国3万石(旧南部領の北郡、三戸郡、二戸郡金田一以北)に移封、三戸県は解体され、斗南藩成立。
1870年 3年 5月 14日 南部利恭、県制施行を建白し、盛岡藩知事の辞任を請う。
15日   松平容大、斗南藩知事に任命。
7月 盛岡藩を廃し、盛岡県を置く(廃藩置県)。
1871年 4年 2月   斗南藩、藩庁を五戸から田名部に移す。
7月 14日   廃藩置県により一関県(岩手県)、弘前黒石斗南七戸八戸館(北海道の一部)県(青森県)成立。
9月 5日   黒石、斗南、七戸、八戸、館の5県、弘前に合併。
23日   弘前県を青森県に改称し、県庁は弘前から青森に移す。
11月 2日   盛岡・一関・胆沢・江刺の四県を廃し、盛岡県と一関県を置く。
1872年 5年 1月 8日   盛岡県を岩手県に改称。

脚注

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  1. ^ a b c (『川内町史』)
  2. ^ a b c d e f (岩手県史-12)年表
  3. ^ 『南朝編年紀略』(彰考館文庫本)
  4. ^ a b c d (『むつ市史』)年表
  5. ^ 新羅之記録
  6. ^ 『前代歴譜』
  7. ^ 『岩手県史』第2巻 中世篇 上
  8. ^ 『青森県史』資料編 中世1

参考文献

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  • 菊池悟郎『南部史要』菊池悟郎、1910年8月28日。 
  • 青森県史編さん中世部会『青森県史 資料編 中世 1 南部氏関係資料』青森県、2004年3月31日。 
  • 青森県史編さん中世部会『青森県史 資料編 中世 2 安藤氏・津軽氏関係資料』青森県、2005年3月31日。 
  • 青森県史編さん近世部会『青森県史 資料編 近世篇 2 津軽1 前期津軽領』青森県、2002年3月31日。 
  • 青森県史編さん近世部会『青森県史 資料編 近世篇 3 津軽2 後期津軽領』青森県、2006年3月31日。 
  • 青森県史編さん近世部会『青森県史 資料編 近世篇 4 南部1 盛岡藩』青森県、2003年3月3日。 
  • 青森県史編さん近世部会『青森県史 資料編 近世篇 5 南部2 八戸藩』青森県、2011年3月31日。 
  • 青森県史編さん近現代部会『青森県史 資料編 近現代 2 近代成立期』青森県、2000年3月31日。 
  • 青森県史編さん民俗部会『青森県史 民俗編 資料 南部』青森県、2001年3月31日。 
  • 青森県史編さん民俗部会『青森県史 民俗編 資料 下北』青森県、2007年3月31日。 
  • 『岩手県史 第2巻 中世篇 上』岩手県、1961年3月25日。 
  • 『岩手県史 第3巻 中世篇 下』岩手県、1961年10月20日。 
  • 『岩手県史 第5巻 近世篇 2』岩手県、1963年1月30日。 
  • 『岩手県史 第9巻 近代篇 4 岩手県篇(その2)』岩手県、1964年3月30日。 
  • 『岩手県史 第10巻 近代篇 5 岩手県篇(その3)』岩手県、1965年3月30日。 
  • 『岩手県史 第12巻 年表』岩手県、1966年11月1日。 
  • 『秋田県史 第1巻 古代・中世編』秋田県、1977年4月30日。 
  • むつ市史編さん委員会『むつ市史 近世 編』青森県むつ市、1988年3月31日。 
  • むつ市史編さん委員会『むつ市史 年表 編』青森県むつ市、1988年2月20日。 
  • 工藤睦男『大畑町史』青森県下北郡大畑町(現むつ市)、1992年2月1日。 
  • 川内町史編さん委員会『川内町史 原始・古代 中世 近世 編』青森県下北郡川内町(現むつ市)、2005年3月13日。 
  • 『五所川原市史 通史編Ⅰ』青森県五所川原市、1998年3月31日。 
  • 『矢巾町文化財報告書第31集 久慈文書』岩手県紫波郡矢巾町教育委員会、2003年2月28日。 
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 2 青森県』角川書店、1985年12月1日。ISBN 4-04-001020-5 
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 3 岩手県』角川書店、1985年3月8日。ISBN 4-04-001030-2 
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 5 秋田県』角川書店、1980年3月8日。ISBN 4-04-001050-7 
  • (有)平凡社地方資料センター『日本歴史地名大系 第2巻 青森県の地名』平凡社、1982年7月10日。ISBN 4-582-49002-6 
  • (有)平凡社地方資料センター『日本歴史地名大系 第3巻 岩手県の地名』平凡社、1990年7月13日。ISBN 4-582-91022-X 
  • (有)平凡社地方資料センター『日本歴史地名大系 第5巻 秋田県の地名』平凡社、1980年6月6日。ISBN 4-582-49005-0 
  • 児玉幸多坪井清足日本城郭大系 第2巻 青森・岩手・秋田』新人物往来社、1980年7月15日。 
  • 「角川日本姓氏歴史人物大辞典」編纂委員会『角川日本姓氏歴史人物大辞典 第3巻 「岩手県姓氏歴史人物大辞典」』角川書店、1998年5月18日。ISBN 4-04-002030-8 
  • 木村 礎、藤野 保、村上 直『藩史大辞典 第1巻 北海道・東北編』雄山閣、2002年4月15日。ISBN 4-639-10033-7 
  • 松岡孝一『青森県百科事典』株式会社東奥日報社、1981年3月1日。 
  • 岩手放送『新版 岩手百科事典』岩手放送株式会社、1988年10月15日。 
  • 秋田魁新報社『秋田大百科事典』秋田魁新報社、1981年9月1日。ISBN 4-87020-007-4 
  • 細井計、伊藤博幸、菅野文夫、鈴木宏『岩手県の歴史』山川出版社、1999年8月17日。ISBN 4-634-32030-4 
  • 浪川健治『街道の日本史 4 下北・渡島と津軽海峡』吉川弘文館、2001年7月10日。ISBN 4-642-06204-1 
  • 瀧本壽史、名須川溢男『街道の日本史 5 三陸海岸と浜街道』吉川弘文館、2004年12月20日。ISBN 4-642-06205-X 
  • 細川計『街道の日本史 6 南部と奥州道中』吉川弘文館、2002年5月20日。ISBN 4-642-06206-8 
  • 西ヶ谷恭弘『国別 戦国大名城郭事典』東京堂出版、1999年12月5日。ISBN 4-490-10533-9 
  • 地方史研究協議会『地方史事典』弘文館、1997年4月30日。ISBN 4-335-25056-8 
  • 大正十三造『不来方の賦 -南部藩主物語-』岩手日報社、1987年4月10日。ISBN 4-87201-015-9 

関連項目

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外部リンク

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自治体史

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