加藤田平八郎

江戸時代後期の武士、剣術家

加藤田 平八郎(かとうだ へいはちろう、文化5年(1808年) - 明治8年(1875年1月15日)は江戸時代後期の武士剣術家(加藤田神陰流第9代)、武術家。数多くの他流試合をしたことで知られる。『加藤田日記』の著者としても知られる。重秀潜卿益亭。弟に儒学者・加藤米山がいる。

生涯

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文化5年(1808年)、久留米藩士・加藤十助の長男として生まれる。加藤家は、藩の剣術師範家として神陰流を伝える加藤田家の分家であった。11歳より加藤田新八に入門し神陰流を学ぶ。16歳で加藤田新八の娘を娶り、加藤田家の婿養子となる。

文政12年(1829年)、回国修行の旅に出る。九州北部、山陽地方近畿地方伊勢四国の19か国を7か月で回り、この間に試合をした人数は998人にのぼった。

天保8年(1837年)、養父・加藤田新八が隠居し、加藤田家の家督を継ぐ。また同年、星野平左衛門より楊心流薙刀術・鎖鎌術を学んだ。

翌天保9年(1838年)、江戸窪田清音窪田派田宮流)のもとで修行するため再び回国修行の旅に出た。江戸で男谷信友直心影流男谷派)と十本勝負で全勝、島田虎之助(直心影流男谷派)と八本勝負で全勝、6余(約1.8m以上)の長竹刀を使う小川八郎(小倉流)に判定勝ちした。この回国修行中、平八郎は4尺(約1.2m)の長竹刀を使って試合をしていたが、定寸の3尺3(約1m)の竹刀を使う千葉周作北辰一刀流)には敗れたという。

武術だけでなく文筆にも堪能で、家督を継いだ天保8年(1837年)から明治7年(1874年)まで、毎夜、稽古の後に詳細な日記を記していた。この日記は現在は一部散逸しているが、現存分は『加藤田日記』として久留米の貴重な郷土史料となっている。また、万延元年(1860年)には、初心者への剣術指導法を記した『初学須知』を著した。この中で、自らの他流試合や剣術指導時の経験を分析して記している。

明治8年(1875年)1月15日没、享年68。平八郎の没後、息子の大介が自宅に道場を開き、加藤田神陰流剣術と楊心流薙刀術鎖鎌術を指導した。

家督相続した天保8年(1837年)から没するまでに教えた門人は3500人を超えるという。奥免許を授けた12名の内、幕末期の名剣士の一人である松崎浪四郎剣道範士となった梅崎弥一郎らが知られる。

参考文献

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  • 間島勲 『全国諸藩剣豪人名事典』 新人物往来社 1996年
  • 綿谷雪 『新・日本剣豪100選』 秋田書店 1990年
  • 村山勤治 「鈴鹿家蔵・加藤田伝書『初学須知』について」(『武道学研究』第15巻第2号 日本武道学会 1983年)
  • 村山勤治 「鈴鹿家蔵・加藤田伝書「加藤田平八郎東遊日記抄」について」(『武道学研究』第18巻第2号 日本武道学会 1985年)