京極高中
江戸時代中期から後期の大名。丸亀藩の第5代藩主
京極 高中(きょうごく たかなか)は、讃岐国丸亀藩の第5代藩主。丸亀藩京極家7代。
京極高中像(丸亀市立資料館蔵) | |
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
生誕 | 宝暦4年3月23日(1754年5月14日) |
死没 | 文化8年1月13日(1811年2月6日) |
改名 | 栄吉(幼名)、高中 |
別名 | 高窮 |
戒名 | 大量院殿覚法道元大居士 |
墓所 | 滋賀県米原市清滝の徳源院 |
官位 | 従五位下・能登守、若狭守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治→家斉 |
藩 | 讃岐丸亀藩主 |
氏族 | 京極氏 |
父母 | 父:京極高矩、母:久我子 |
兄弟 | 銕子、熊子、高治、高中、高教 |
妻 |
正室:秋元凉朝の養女 側室:山田氏 |
子 |
高行、高朗 養女:琴 |
略歴
編集宝暦4年(1754年)3月23日、第4代藩主・京極高矩の長男(次男との説もある)として江戸で生まれる。宝暦13年(1763年)に父が死去したため、家督を継ぐ。明和7年(1770年)12月16日に従五位下・能登守に叙位・任官する。
安永9年(1780年)、勘定奉行の村井忠左衛門を登用して銀札を発行した。さらに備蓄米の法を制定し、窮民救済に努めた。また、儒者である渡辺半八を登用し、学問所である正明館を拡大して学問を奨励し、福島甚浦を建設して船舶の利便を図った。文化3年(1806年)に若狭守に遷任する。文化8年(1811年)1月13日に江戸屋敷で死去した。享年58。跡を四男の高朗が継いだ。