二条治孝
江戸時代中期から後期の公卿。従一位・左大臣。二条家23代。母は家女房
二条 治孝(にじょう はるたか)は、江戸時代中期から後期にかけての公卿。右大臣・二条宗基の子。官位は従一位・左大臣。二条家23代当主。号は法寿金剛院。昭和天皇の高祖父。
二条治孝像(同志社大学歴史資料館蔵) | |
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
生誕 | 宝暦4年閏2月9日(1754年4月1日) |
死没 | 文政9年10月6日(1826年11月5日) |
戒名 | 法寿金剛院 |
墓所 | 右京区二尊院 |
官位 | 従一位、左大臣 |
主君 | 後桜町天皇→後桃園天皇→光格天皇 |
氏族 | 二条家 |
父母 | 父:二条宗基、母:家女房 |
兄弟 | 五千姫、重良、治孝 |
妻 |
正室:徳川翰子(徳川宗翰の次女) 側室:樋口信子(樋口基康の娘) |
子 | 斉通、九条輔嗣、西園寺寛季、斉信、九条尚忠、近子、松殿隆温、胤麿、増護、道永、信観、隆子、利子、親子、保子、嬉子、軌子、福子、多喜子(播磨本徳寺昭堯)室、武子、広子、育子、柔子、近子、純姫、遂子、最子、常子など |
経歴
編集宝暦4年(1754年)、二条宗基の子として京に誕生。10代将軍・徳川家治から偏諱を受けた。早世した兄・重良の跡を継いだ。
明和7年(1770年)8月4日、叙従三位。寛政8年(1796年)8月4日、叙従一位。右大臣(1791年 - 1796年)を経て、左大臣(1796年 - 1814年)に至る。
関白である鷹司政熙が辞意を示した際、後桜町院の外戚で左大臣でもある治孝が後任の有力候補であった(後桜町院は天皇に治孝の関白就任を求めていた)。しかし、光格天皇に「非器」と評価され、江戸幕府も同様の見解を示したため、関白は一条忠良に超越されてしまい、その代償に検討された准三宮宣下も、摂家一列の反対で実現しなかった[1]。
系譜
編集- 父:二条宗基
- 母:家女房
- 正室:徳川翰子(嘉姫) - 徳川宗翰の次女
- 側室:樋口信子 - 樋口基康の娘
- 十一男:九条尚忠(1798年 - 1871年) - 兄九条輔嗣の跡を継ぐ
- 家女房
- 四男:西園寺寛季(1786年 - 1856年) - 西園寺賞季養子
- 五男:胤麿 - 三条実起養子
- 男子:増護(? - 1875年)- 随心院門跡
- 男子:道永(? - 1821年) - 理性院
- 男子:信観
- 十九男:松殿隆温(1811年 - 1875年) - 兄二条斉信養子、大乗院門跡、のち還俗(奈良華族)
- 女子:隆子(彰君) - 乗蓮院、徳川治国正室
- 女子:利子(恒姫)
- 女子:親子(誠君) - 西本願寺大谷光摂室
- 女子:保子(脩君) - 徳川斉敦正室
- 女子:嬉子(昌君) - 西本願寺大谷光摂次室
- 女子:軌子(五百君) - 花園公熙養女
- 女子:福子(徳君) - 宝林院、黒田斉清正室
- 女子:多喜子(興姫) - 播磨本徳寺昭堯室
- 女子:武子(理君) -乙瀬重信正室
- 女子:広子(篤君) - 河内顕證寺摂真室
- 女子:育子(英君)
- 女子:柔子 - 越前誠照寺室
- 女子:近子(嶺君)(1804年 - 1849年) - 仏光寺随念真導室、のち、仏光寺執行法務
- 女子:純姫(純君)
- 女子:遂子(千萬君) - 甘露寺国長養女、鍋島直与継室
- 女子:最子(光君) - 松平頼縄継室
- 女子:常子(喜久君) - 播磨本徳寺昭明室
系図
編集昭和天皇の系譜 |
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脚注
編集- ^ 長坂良宏 (2018年2月20日). 近世の摂家と朝幕関係. 吉川弘文館. pp. 148-155
参考文献
編集- 近藤敏喬 編『宮廷公家系図集覧』、東京堂出版、1994年