三条西公条
戦国時代の公卿、歌人、和学者。三条西実隆の次男。正二位・右大臣。『細流抄』『明星抄』など。三条西家5代
三条西 公条(さんじょうにし きんえだ)は、戦国時代の公卿・歌人・和学者。内大臣・三条西実隆の次男。官位は正二位・右大臣。称名院と号する。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 文明19年5月21日(1487年6月12日) |
死没 | 永禄6年12月2日(1563年12月17日) |
改名 | 公保(初名)→公条→仍覚(法名) |
別名 | 号:称名院 |
戒名 | 称名院因空 |
墓所 | 京都府京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町の二尊院 |
官位 | 正二位、右大臣 |
主君 | 後柏原天皇→後奈良天皇→正親町天皇 |
氏族 | 三条西家 |
父母 | 父:三条西実隆、母:勧修寺教秀の三女 |
兄弟 | 公順、公条、桂陽、保子、正親町実胤室、勝興寺左計室 |
妻 | 正室:甘露寺元長の娘 |
子 | 実枝、水無瀬兼成、中院通為室 |
経歴
編集兄・公順が出家したために[1]次男ながら家督を継ぎ、2歳で叙爵して侍従に任じられる。明応6年(1497年)12月に元服・加冠した後、永正2年(1505年)5月蔵人頭、永正4年(1507年)4月参議、永正8年(1511年)10月権中納言を歴任し、大宰権帥や神宮伝奏を経て、永正18年(1521年)4月権大納言に昇進した。
大永6年(1526年)1月正二位に叙され、天文10年(1541年)1月内大臣、さらに天文11年(1542年)閏3月右大臣に任じられるが、天文12年(1543年)7月57歳で致仕、天文13年(1544年)2月京都二尊院で出家、法名を仍覚という。永禄6年(1563年)12月2日に薨去。享年77。二尊院に葬られた。
父・実隆から『源氏物語』の奥義を継承し、『明星抄』などの注釈を表した他、享禄元年(1528年)から翌年にかけて後奈良天皇に『古今和歌集』を進講するなど、当代一流の文化人として重用された。著書には、古典の注釈書『伊勢物語抄』『百人一首抄』、紀行文に『高野山参詣記』『吉野詣記』『三塔巡礼記』など、他撰の家集としては『称名院』がある。
系譜
編集脚注
編集- ^ 公順は公条よりも3歳年長であったが、父・実隆が兄の早世によって次男でありながら家督を継いだことから、これを嘉例として公順を廃して(『実隆公記』長享2年3月5日条)、後に東大寺に入れて出家させ、次男である公条を跡継ぎにしたという(菅原正子「三条西公条と学問」『日本中世の学問と教養』同成社、2014年 ISBN 978-4-88621-673-1)。
- ^ 宮本義己「稲葉一鉄の医道知識と薬方相伝」、『国学院大学大学院紀要』5輯、1973年