一柳 直治(ひとつやなぎ なおはる)は、江戸時代前期から中期の大名伊予国小松藩2代藩主。

 
一柳直治
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛永19年5月4日1642年6月1日
死没 正徳6年3月15日1716年5月6日
別名 主膳[1][2]
戒名 大運軒淵翁宗治[2]
墓所 愛媛県西条市の仏心寺[2]
官位 従五位下山城守右近将監兵部少輔[1][2]
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光家綱綱吉
伊予小松藩
氏族 一柳氏
父母 一柳直頼小出吉親娘青龍院
兄弟 直治小出吉直
分部嘉治娘性善院、正寿院
頼徳治良直堅
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生涯

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寛永19年(1642年)5月4日、初代藩主・一柳直頼の長男として江戸で生まれる。母の青龍院は園部藩小出吉親の娘。正保2年(1645年)、父の死去により、4歳で跡を継ぐ[1]慶安4年(1651年)、将軍徳川家綱に初謁[1]万治3年(1660年)12月、従五位下山城守に叙任[1]寛文元年(1661年)に初めて国入りを果たし[1]、寛文4年(1664年)に封地の御朱印状を発給されている[1]

寛文年間から元禄年間(1661年 - 1704年)にかけて、広江村(現在の西条市広江)で干拓を行うなど[3]、300町歩の新田開発を行った。また、直治の時代に大洲藩領から小西伝兵衛を招いて御用紙屋とし、紙漉に従事させた[4]。小西伝兵衛にはじまる小松藩での和紙生産はその後発展を遂げ、紙は藩の専売品として藩財政を支える産品の一つになる[4]

元禄6年(1693年)には、除封された元陸奥大久保藩本多政利の子・本多政真[注釈 1]を預かっている[1][5]

宝永2年(1705年)閏4月15日、長男・頼徳に家督を譲って隠居[1]

正徳6年(1716年)3月15日に小松にて死去した。享年75[1]

備考

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  • 土芥寇讎記』では統治者として高評価をされており、殺生を嫌ったと記されている。

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ 国民図書版刊本の本多氏の系譜では「政定」としているが[5]、国会図書館蔵の写本では「政真」が正しい[6]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j 『寛政重修諸家譜』巻第六百四「一柳」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.160、『新訂寛政重修諸家譜 第十』p.160。
  2. ^ a b c d 一柳貞吉 1933, p. 51.
  3. ^ 一柳直治”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2014年4月1日閲覧。
  4. ^ a b 和紙の起こりとその先覚者たち”. 西条市 - 水の歴史館. 西条市役所環境衛生課. 2014年4月1日閲覧。
  5. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第六百八十一「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.636
  6. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百八十一「本多」、国会図書館所蔵写本『寛政重修諸家譜 1520巻 (161)』103/154コマ

参考文献

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外部リンク

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