一力健治郎
日本の実業家
一力 健治郎(いちりき けんじろう、文久3年9月25日(1863年11月6日) - 昭和4年(1929年)11月5日)は、日本の実業家。河北新報社創業者(社主)。旧姓鈴木。宮城県平民。
いちりき けんじろう 一力 健治郎 | |
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生誕 |
1863年11月6日 宮城県仙台市 |
死没 | 1929年11月5日(65歳没) |
出身校 | 国民英学会 |
職業 | 実業家、政治家、ジャーナリスト |
配偶者 | あり |
子供 | 一力次郎(二男) |
河北新報元社長の一力次郎の父。元河北新報社社主の一力一夫の祖父。河北新報社社長の一力雅彦の曾祖父。囲碁棋士の一力遼の高祖父。
経歴
編集鈴木作兵衛の四男として生まれた[1]。後に先代の松治郎の養子となる[1]。 東華学校、第二高等中学校を卒業後、上京。国民英学会にて学ぶ。また、第二高等中学在学中には、くまじ夫人との間にすでに、一男一女をもうけていた[2]。
仙台での書店経営で実業界入りし、植林会社(宮城植林株式会社)を興し創業。宮城電燈会社重役等を歴任する。その後政界に進出し、明治27年(1894年)には、宮城県会議員を、翌28年には、仙台市会議員にも選出された[2]。
明治30年(1897年)1月17日、立憲改進党所属の宮城県会議長である藤沢幾之輔の勧めにより、進歩党機関紙「東北日報」を基礎に「河北新報」を創刊しその後、新聞経営に専念した[2]。
人物像
編集気迫の人、先見性あるユニークな着想、加えて温情の人として、多くの人に慕われた[2]。
昭和30年(1955年)日本の新聞人顕彰が企画され健治郎は、福沢諭吉、陸羯南らと共に、第一回の20人の内の1人に選出され、東京の千鳥ヶ淵に建つ記念碑「自由の群像」に名前が刻まれた[2]。
家族・親族
編集一力家
編集- 男・太郎[1]
脚注
編集参考文献
編集- 人事興信所編『人事興信録. 5版』人事興信所、1918年。
- 創刊百周年記念事業委員会編『河北新報の百年』河北新報社、1997年。