年末の御挨拶
2024年が終わろうとしている。
みすずの国、キリンの国を発表してから十年の歳月が流れた。いまだ国シリーズどころかハルカの国さえ完成していないことには戦慄する。
そもそも、ハルカの国は1~2時間程度の短編を予定していたのではなかったか。ユキカゼなどは端役でしかなかったはず。五木もおトラもいなかった者たちが現れて、ハルカの国を長大にした。
次作である春秋編、ここからの物語が本来予定していたハルカの国になる。当初のスタートラインに立つまで六年かかった。物語はつくづく、思い通りにはいかない。
ハルカの国の予定が狂い、我輩の人生設計も狂った。
ハルカの国を完成させた時、我輩の人生はどうなっているのだろう。国シリーズを完成させられるだけの健康な身体と心、資金が残っていればいいのだが。
活動十周年記念として「みすずの国」リメイクを発表する予定だったが、来年の初頭に延期したい。
理由はいくつかある。
一つには発表の方式。どこで、どのように発表するか。どうすれば国シリーズの広報に最も効果があるか。有料か無料か。未だに迷っている。
たねつみの発表を観察していると、明らかにSTEAMでの購入層が多い。これは購入者の国籍を日本に限っても言える。なのでSTEAMでの発表はマストかと思っている。
みすずの国リメイクを作る目的は、国シリーズの敷居を下げることにある。
シリーズものなので、まずみすずの国から遊んでもらうことになるのだが、初期作品のクオリティのため昨今の高水準な作品群と比較すると魅力に劣る。
入り口である「みすずの国」だけでもアップグレードして、少しでも手に取りやすい作品群にしたい。これを叶えるための方法を模索している。
もう一つには「たねつみ」と発表の時期をずらした方が良いと判断したためだ。
たねつみの発表と合わせれば宣伝にも効果があると考えていたのだけれど、「たねつみ」の話題に埋もれてしまいかねない気がして止した。
みすず繋がりで混乱を生んでも良くない。我輩が「みすず」と発言する度、どっちの何について言及しているのか分からなくなっても困る。
たねつみの発表が一段落し、みすずの国としてしっかり宣伝出来るタイミングが良かろうと今は考えている。
幸いなことに、たねつみを通して我輩の作品に興味をもってくれた方々もちらほら見受けられる。彼等の熱が冷めない内に発表したい。
従来から国シリーズに親しまれてこられた方々にも、国シリーズの始まりを一人の少女の魂と共に思い出し、楽しんでもらえる内容になっていると思う。
つくっている我輩は「なつかい……!」と悶えながら楽しんでいる。
たねつみに関しては前回noteにて十分語ったので、多くは語らない。
遊んで頂けた方々は、ありがとうございます。まだの方はぜひ手に取られて。
思い出をひとつ。
夏の国の物語は、周りからは反対された。我輩が「どうしてもやりたい」ということで押し切ったが、夏の国で離脱する読者もいるだろうことを覚悟して欲しいとも言われた。
皆様はどうだったでしょうか?
我輩の一番のお気に入りキャラクターは猫。彼の哲学である「生は暗く、死もまた暗い」はマーラー作曲の「大地の歌」の詩からとってきている。元は李白の詩らしい。意味は我輩にもわからない。
ハルカの国・春秋編は2025年の発表を目指す。
まだシナリオも完成していないが、形にはなっている。時間をかけたおかげで何を書こうとしているのかは明確になった。
明確になったけれど、これで大丈夫なのだろうかという不安は尽きない。不安と言うより、恐怖がある。
作ったものが皆さまの期待に応えられなかったらどうしようと、今から身がすくむ。
クオリティの心配はしていない。全身全霊をかけて仕上げるつもりだし、それだけのエネルギーを要求する作品だと思う。
不安なのは力を尽くし、我輩が作りたかったものを作った挙句、皆さまの期待に応えられない可能性。それを想像すると恐ろしいのだ。
おそらく、我輩は年々、偏ってきている。感性や思想が我輩の視座として凝り固まってきている。
我輩の視点で世界を観察し、そこから見えるものに恐怖し、感動している。そこからの照り返しで作品を綴るために、我輩の観が強くなってきている。言ってしまえば、段々と、独りよがりになりつつある気がしている。(たねつみはそれを薄めるための取り組みでもあった)
様々な方法を駆使し、客観性を保とうと努めてはいるが、生きれば生きるほど人は濃くなり、それは止められるものではないようだ。
老いるとは己の世界に閉じていくことなのだとつくづく思う。この〝老化〟には自覚する以上の対処はなさそうだ。自覚したところで、我輩は我輩になっていくことを止められない。むしろ老いによる孤立に無自覚であること、あるいは「そんなことはない」と否定的であることの方が危ない。
我輩は我輩という座標に溺れていっている。そこから助かる術はない。ただ自分が溺れる場所をどれだけ適格に描写出来るかどうか。
それが閉じていく我輩の世界から、皆さまへと〝放り投げる〟、我輩が届けられる唯一の価値だと思っている。
俺はもう駄目だ、ここから抜け出せない。せめてこれを受け取ってくれ! と溺没間際に投げるダイイングメッセージのようなものが、各々生きる人間の、他者へと届けられる最上の価値ではないだろうか?
それぞれ生きた者が観察し、記録をのこし、他者へと伝える。その蓄積が人間の歴史であり、行為は人間に参加することだとも思っている。
我輩はハルカの国を通して、人間の列に並ぶ。皆さまとの交流を果たすのだ。そんな大それた思いも抱えて創作している。
しかし言ってみれば、ハルカの国は我輩の偏見であるし、我輩の老いから滲みでたものでもあろうし、シワが寄り骨のゆがんだ歪な作品なのである。
四十手前の若造が老いだの人生だの、何を分かったようなこと――と言われたら、我輩は反論したい。
四十は初老。人生の折り返し地点はとうに過ぎている。もう未来よりも過去の方が長いのだ。
医学の発達で寿命は延びたが、人生までが伸びたわけではない。
四十は十分に老いている。四十どころか三十でも、十分、自分の世界に閉じ込められていっている。であるから、ここらが物語の書きどころだとも思っている。
であるから、我輩も「ハルカの国」を書いている。意思よりもむしろ、己から染み出るものとして。我輩という座標の結果や結末を、記録という価値として、エンタメという味付けをほどこし送り出そうとしている。
そういう我輩にとっては仰々しいものだから、「なにこれ」と相手にされないことを想像すると今から恐いのだ。
何も伝わらず、ただおっさん一人が渦に飲み込まれて消えていくなんて、あんまり寂しい。
しかし選択肢はない。
上記したとおり、人は老いて己に閉じていくのは避けられないさだめ。いつかは自分に溺れてしまうのだし、今も溺れている最中なのだ。
溺れてしまうことを自覚して、やるしかないのである。生半可に助かっても仕方ない。それは助かったつもりでいるだけで、本当は助かってなどいない。生きて己として孤立していくことの寂しさから目を逸らしているだけだ。目を逸らし、逃げて、最後の最後に虚しさを誤魔化しきれなくなる。これは一番危ない。
選択肢ではなく覚悟の問題だと思っている。やるっきゃない。
とは言っても、相手にされなかったことを思うと恐ろしい。我輩の本性はピエロだから、人に〝うけ〟ないのが何より辛いのだ。
うけたい……死ぬほどうけたい……! といつも思っている。
我輩は他人が好きなのだ。
生き残りへの祝福
さて2024年が終わった。
年の瀬には自分を労いたい。同時に感動したい。
生き延びたことに、生き残ったことに、感動しようと思う。我輩は今年もよくやった。
よくやっていない時期もあったが、こみこみよくやった。
近頃思うのは、自分を寿いでやることの大切さ。先述した通り、人は老いるにつれ己に閉じ、孤立していく。他者の声は遠くなっていく。
そうした時、己を慰めるのは己しかいなくなる。だから語りかけてやりたい。労い、感動してやりたい。我輩に引きつられてここまでやってきて、共に寂しくなってしまった我輩という存在を。我輩は2024年を生き延びた我輩というものを、手をみて、脚をみて、見つけてやりたい。
この感覚は登山に似る。息を切らし、鬱蒼とした森をぬけ、森林限界をこえて、ついに登り切った時、人は振り返るだろう。
そうして広がる景観に感動するのだ。この広大なものを踏破してきて、今はここにいるという自分の存在感に。
その感動こそ、自己への寿ぎだと思う。存在感に充実した、声ならぬ声なのである。
そういうものを、一年生き延びて、まだここにいるという自分におくりたい。
鏡に映る顔や服装、身だしなみなんてのは他人が見つける虚像だ。
鏡などなかった原始の世界にかえろう。我々は手足が見える様に出来ている。ならばそれらこそ、発見を待っている我輩たちなのだ。孤立してく孤独な渦のなかに、一緒に溺れてくれるともがらなのだ。
そうしたもの達を発見し、感動し、熱い思いで寿いでやりたい。
感動すると力がでる。作品創作には力が必要だ。どれだけ、我輩はこの我輩という身体、存在からエネルギーを引き出せるか。引き出せたものの総和がハルカの国や国シリーズとなっていくのだから、見つけにくいものでも見つけて、感動したい。感動の総和が、我輩が皆さまに届けられる価値の総和となるだろうから。
皆様も、どうか御自分を見つけられよ。身体をみて、見えるところをさすっておあげなさい。酒の一本でもそなえて、そなえた酒は口から飲めばいい。酒が落ちていく臓腑もまた、よく頑張った、無理もさせたね、と労ってやろうじゃない。
とにかくも、我々の生き残りに、乾杯。
存在に祝福を。
今年もお世話になりました。来年も、よろしゅう!