法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『アンダーワールド2 エボリューション』

 吸血鬼として人狼族を狩っていたセリーンは、真実を知らされて自身を吸血鬼にしたヴィクターを処刑した。セリーンは人狼族の血を引きつつ吸血鬼の力もあたえられた青年マイケルとともに生きのびようとする。そして復活した原初の吸血鬼マーカスもまた、自身の利益のために行動をはじめた……


 シリーズ2作目として2006年につくられた米国映画。1作目*1の直接的な続編で、原案者で監督と共同脚本をつとめたレン・ワイズマンも続投している。

 十数世紀前からつづく因縁の戦いだが、スケールが大きいようで小さいようで、よくわからない。メイキング映像によると、1作目の脚本を書きながら余ったアイデアをよりあつめて2作目として完成させたようだ。スケールに統一感がないのもそのためか。
 特に困惑するのが原初の吸血鬼マーカスで、冒頭の歴史劇のような回想では吸血鬼にしてやった領主ヴィクターに指示されて右往左往する若者で、復活してからは威厳のあるクリーチャーで、しかし人間の姿になると小悪党のようにふるまう。声の演技もクリーチャー時は重々しいのに髭面の人間時は軽々しい。吸血鬼と狼人間それぞれの原初のさらなる父親も登場するが、ただ不老不死なだけで普通の人間のような精神と戦力で、主人公に特別な血をさずけただけで終わってしまう。
 しかしVFX満載の特撮映画としては予想外に楽しかった。構図は説明的でかっこよくないし、あいかわらずカットを割りすぎてフェティッシュ度が足りないが、多様で面白い建物や地形でのアクションが多い。特に最終決戦が立体的なオモシロ巨大セットでゴアな戦闘をくりひろげるので、B級アクション映画としては満腹。艦船の露骨なミニチュアっぽさも世界観にあっていて好印象。ヘリコプターなどでもミニチュア特撮を多用している。

『アンダーワールド』

 地下鉄駅で銃撃戦がおこる。それは人狼族と吸血鬼の戦いだった。同じ来歴からふたつにわかれた不死の種族は、もともとの支配者たる吸血鬼が人狼族を借る立場になっていた。
 吸血鬼のなかでは若いセリーンは、女性ながら凄腕の処刑人として活躍していた。しかし人狼族が追っていた人間の青年と出会うことで、人狼族の反撃策と吸血鬼の陰謀劇に巻きこまれていく……


 2003年の米国映画。美術出身で原案者のレン・ワイズマンの初監督作品で、オリジナル作品ながらヒットして、そこそこ長くシリーズ化された。

 しかし約2時間の映画で設定の洪水ぶりがひどい。吸血鬼と狼人間が中世から現代まで争っていたというシンプルな設定の作品かと思いきや、それぞれの陣営がどのような状況になっているかの過程を冒頭で長々とモノローグで説明する。その過程は物語のなかで観客に理解させるべきだろう。
 さらに吸血鬼の指導者の復活をめぐる複雑なルールなどが物語に組みこまれていて、とにかく設定の理解に追われるばかりで物語を楽しみづらい。斬新な設定の本流で幻惑させる重厚なファンタジーというわけでもなく、設定そのものは安易な種類なのでビジュアルはともかく複雑で異常な世界を楽しむことも難しい。
 ヴィクターという男が、期待されたように偉大に見せかけて、物語が進むにつれて陳腐さを明らかにするところは良し悪し。ちょうど放映中の特撮ドラマ『仮面ライダーガヴ』の主人公の父親のようで、ある意味でダメさがすごい。
 しかし後半から吸血鬼を貴族階級、狼人間を庶民階級に位置づけることで、尊大にふるまいながら搾取する吸血鬼の描写が意図的な風刺とは感じられてくる。キャラクターに愛着をもつ前に裏切り描写が入るので、のめりこむことはできなかったが。


 時代的にも『マトリックス』を後追いしているとばかり感じて、ヴィジュアルを売りにしているわりに感心しなかった。セリーンが高所から落下しながら着地してすぐ歩き出すあたりの描写は意図的な模倣としか思えない。仮想現実のかわりに超常能力で人間離れしたアクションを展開するが、主人公の戦闘に緊張感がない。棒立ちで敵に向かって歩きながら二丁拳銃を撃ちつづける描写のダルさには逆に驚く。カットも割りすぎて複雑な殺陣や破壊シーンをフェティッシュに見せてくれない。
 ゴシックでバロックな建物群や服装は悪くないが、最初から最後まで暗く青いトーンで統一しすぎて飽きてしまう。悪い意味で映画『CASSHERN』を思い出した。殺陣の遅さや、ワイヤーアクションの吊られている感じも同様。
 シネマスコープサイズなのに世界の広がりが感じられず、小さなセットで箱庭のような物語を展開しているように見えるのも難。構図が悪いのか、VFXだよりの情景に予算が追いついていないのか。

『28週後…』

 扉や窓をふさいで老若男女が閉じこもっていた屋内に、幼い少年が助けを求めにくる。しかしつづけてゾンビのような感染者が殺到し、老夫婦はたがいを思いやりながら惨殺され、からくも逃げ出した夫は助けを求める妻のもとに戻ることを選ばなかった。
 そして感染者が死滅し、廃墟となったロンドンに避難民がもどってきた。施設の責任者となった夫は、外国から呼びよせた娘と息子に再会するが、妻を見捨てたことはごまかすように説明した……


 走るゾンビ映画の嚆矢となった*1『28日後…』の続編としてつくられた2007年の英国映画。今年に3作目の『28年後...』が公開予定。

 前作監督のダニー・ボイルは脚本や製作になったまではともかく、第二班の監督もつとめているという不思議な配置換え。3作目では監督に復帰するという。


 さて2作目の内容だが、誰もが少しずつ自他をごまかし、情報を半端に隠したことで状況がとりかえせなくなっていく。オーディオコメンタリーによると、制作側は「罪悪感」で事態が悪化する物語としている。
 ゾンビに襲われる瞬間は見づらい。全体的に手持ちカメラでクローズアップした短いショットをランダムにつないだ感じ。特に冒頭は暗く狭い屋内なので、雰囲気優先にしても襲われているかどうかすらわかりづらく効果半減。手持ちカメラはドキュメンタリタッチをねらったつもりのようだが、むしろドキュメンタリはカット自体は長いことが多いだろう。
 冒頭で良いのは閉所から開けた場所に走りぬけようとして無数の感染者に追われるカットなど。遠くの窓ごしにとりのこされた妻を見捨てるカットは両方に共感できるドラマチックさがあり、ヒッチコックのような皮肉も感じられた。


 本編に入っても、廃墟になったロンドンを子供たちが彷徨するオフビートな描写は良かった。ヘリコプターのローターで感染者を蹴散らす描写も『ゾンビ』*2をリスペクトしつつド派手で素晴らしい。おそらく低予算作品だが、VFXは堅実で見ごたえある。夜間爆撃は暗さでごまかしている側面もあるだろうが、墓標のような黒々としたビル群をナパーム弾が照らす情景に退廃的な美しさがあった。
 またゾンビ映画では死者と生者が区別できなくなる一瞬がジャンルにおける見どころのひとつだが、この映画では走るゾンビとパニックになった群集が区別できない場面がそれにあたる。高所から監視して狙撃する米兵の混乱に共感できる、映画としては素晴らしいシーンだった。
 結末は平凡なゾンビ映画のパターンだが、余韻と雰囲気があるので悪くない。

『映画ふたりはプリキュア Splash ☆ Star チクタク危機一髪』

 公園のおおきな時計の下で美翔舞が待ちぼうけ。寝過ごした日向咲が駆けつける直前、公園横の時計店へひまつぶしに入っていく。なんとか合流した少女ふたりは、急いで町内のど自慢大会に向かう。
 近道で川をわたったら話しかけられたりして完全に遅刻したが、商品券目当てに日向がたのみこみ、特別に参加させてもらう。しかし衝突したふたりがうまく歌いだせなかったその瞬間、世界が静止した……


『プリキュア』シリーズ3作目の劇場版として2006年に公開された中編アニメ映画。監督は劇場版1作目から担当してきた志水淳児で、TV本編のシリーズ構成を担当した成田良美が脚本。

 現在まで『プリキュア』シリーズの劇場版はどれも尺が1時間半に満たないが、今作は『デジモンセイバーズ THE MOVIE 究極パワー!バーストモード発動!!』*1と同時上映されたこともあり、尺が約50分で1時間に満たない唯一の作品になっている。
 しかしそれよりも特異なのは、本当に平凡な少女の日常から物語がはじまること。女児向け変身格闘少女アニメという新たなジャンルを切りひらいた1作目と続編の2作目と、シリーズのフォーマットを構築した4作目にはさまれた作品ゆえか、ここまで地に足のついた静かな導入は珍しい。
 4作目からは設定は日本でも無国籍であったりファンタジックな街を舞台にすることが多いシリーズだが、今作は起伏と自然のある住宅地を舞台にして、主人公たちの移動にあわせて生活感ある情景を印象づけていく。質感ある行信三の背景美術が『おジャ魔女どれみ』シリーズを思い出させる。あまり好きではない志水コンテだが、時計店から川わたりまでのシークエンスは静かな街をそっと切りとっていて悪くない。「プリキュア」らしいファンタジー要素もほとんどなく、のど自慢大会までマスコット的な妖精こそ横にいるが、いっさい変身しないし戦闘もない。
 主人公ふたりがケンカをはじめる理由が敵の策略などではなく、自分自身に責任のある落度に設定されていることも目を引く。よく過激な描写として話題にされる劇場版2作目のプリキュア同士の戦闘は、洗脳された結果にすぎないので実はドラマとしては意味がない。主人公ふたりのケンカからはじまるとして話題になった8作目は、実際に見ると明らかにたがいを好きすぎたがゆえのすれちがいだった。


 もちろん変身格闘少女アニメではあるので、時間を制止させた敵にたちむかうことになる。当時よく参加していた田中宏紀の滑らかな高速アクションが楽しい。
 しかし初戦で敵に圧倒されてからは、砂漠と階段がまじりあったような迷宮に閉じこめられ、協力して変身して戦ったばかりのふたりは再び仲たがいをはじめる。
 そもそも日向は時間が静止した時に喜び、こっそり食べたいものを食べようかという冗談まで口にした。登場人物が少ないこともあり、他の劇場版ではゲストキャラクターが担当するような過失のドラマを主人公が背負う。
 ふたりがバラバラになって行動する描写は、残念ながらレイアウトがゆるくてシチュエーションほどの孤独感などはなかったものの、短い尺のなかで時間をつかって迷走と再生のドラマを描いていく。
 静止した時間のなかでひとりだけ王になることは、孤独になるということ。静止をこばんで未来を目指す主人公ふたりは、『キボウノチカラ~オトナプリキュア'23~』や『魔法つかいプリキュア!!~MIRAI DAYS~』といった後日談シリーズに近いドラマに向きあいつつ、あくまで子供向け作品ということもあって重すぎないよう描いていく*2。


 それなりに渋みを感じさせた敵が追いつめられるとテーマと関係する台詞を饒舌にしゃべったり、怪物化する平凡なパターンになったことは少し残念だったが、日常にもどったふたりの歌がそのままエンディングになるシャレた演出でお釣りがくる。
 東映の子供向け劇場版レベルなりに作画は安定しているし、絵と話の両方で明確なコンセプトを描けている。まだ定期的なイベントとして成立していない時期の劇場版だからこそ、独立した映画として構築する意図を感じる埋もれた佳作。

*1:hokke-ookami.hatenablog.com

*2:しかし『キボウノチカラ~オトナプリキュア'23~』での日向と美翔が、今作をふまえているように思えないことが釈然としない。成田良美がシリーズ構成をつとめているのに。

北村紗衣氏に多数の誹謗中傷をした山内雁琳氏が、いつのまにか一回の揶揄だけで裁判に負けたかのような認識で周囲と語りあっている


視聴者騙して250万借りパクしてバックレて殺害された女の話を聞くとさ、自分は草津町長を強姦魔扱いしておきながら「ポリコレリベサヨうんこ学者」って言われただけでガンリンさんから職を奪っていちガンリンの賠償金かっぱいだ北村紗衣が殺害されてないの、単に相手が我慢強い人格者だっただけよな

「極度∞怪談(してます)やねうら🧬TV@cryptoきくうし@TV65377118」氏の上記ツイート*1を山内雁琳氏が引用し、「僕はほんま非暴力的でまともな人格者」と自認していた。


「自分は草津町長を強姦魔扱いしておきながら「ポリコレリベサヨうんこ学者」って言われただけでガンリンさんから職を奪っていちガンリンの賠償金かっぱいだ北村紗衣が殺害されてないの、単に相手が我慢強い人格者だっただけよな」 流石に言うてええと思う、僕はほんま非暴力的でまともな人格者やわ。

 なお大学を辞めさせられた経緯については山内氏自身の認識とも齟齬があることを「四海鏡 a.k.a. ホンナタカヒロ@shikaikilyou」氏が指摘している。


でも雁琳氏が自身で書いていたことを信じるなら、大学の仕事を失った理由は北村紗衣氏からの連絡が直接原因ではなく、それに関する大学とのやり取りを無許可で録音し、さらに無許可でネットにアップして、大学からの信用を著しく失ったから、なのでは……????

 私も下記エントリの後半で、山内氏自身の説明を注記などで引いて簡単にまとめた。そもそも北村氏が大学に要望したのは誹謗中傷を止めることであって大学を辞めさせることではなかった。
インターネットの一部では、名誉棄損裁判で勝訴した北村紗衣氏が、周囲が誤読するよう誘導して騙していることにされている - 法華狼の日記


 もちろん「ポリコレリベサヨうんこ学者」って言われただけで多額の賠償金が認められたわけではないし、北村氏へ一方的に攻撃しつづけていたのは山内氏であって逆ではない。
 しかし不思議なことに一審判決が出た時点から、著名な元大学教授である大月隆寛氏などをはじめとして、一回くらい揶揄しただけの山内氏に北村氏が執着して裁判をしかけたかのような認識が各所で広められている。
インターネットの一部では、執拗に誹謗中傷された被害者の北村紗衣氏が、なぜか加害者の雁琳氏に執着していることになっている - 法華狼の日記

そもそもなんでわざわざ雁林氏
「だけ」を訴えたのか、未だにその理由が謎なんだが、うんこ呼ばわりにムカついたってだけでなく、あれか、たかだか私大非常勤講師の分際で東大教授のアテクシをうんこ呼ばわりしやがって~、というつよつよ差別意識からのマウントが実は本質だったのか?

そもそも裁判で争点となった誹謗中傷は複数あり*2、「うんこ」という表現がつかわれているのはひとつにすぎない。

名誉棄損裁判で山崎雅弘氏と雁琳氏はどこで差がついたかといえば、相手を批判するだけの意義と根拠に違いがある - 法華狼の日記

 雁琳氏が負けた一審判決を読めば、さまざまな争点で事実誤認が認定されており、ただ表現をやわらげれば妥当な批判になったというわけではまったくない。
http://www.mklo.org/mklo/wp-content/uploads/2024/04/ffdd5b80e78c62b11a9a19dbd8ffa153.pdf
 たとえば争点1からして、時系列を誤認して北村氏が和解に反して行動したかのように主張したことで名誉棄損が認められている*2。そして争点1のツイートは、下記のように単独では罵倒的な表現はつかっていない。

 逆に争点7のツイートは、下記のように話題の「ポリコレリベサヨうんこ学者」がつかわれているが、「一方的な罵詈雑言」であって「社会的評価を低下させるものとはいえない」と判断され、実は名誉棄損は認められず名誉感情侵害が認められている*3。

 山内氏は自身も裁判で多数の争点をめぐってやりとりしているはずなのに、認識できていないのか忘却しているのか。それとも自身が不当な裁判をしかけられているかのように誤認させようとして、争点が多数あることを隠しているのだろうか。
 また大月氏のように、一回くらいの揶揄で北村氏が裁判をしかけたかのように事実誤認をして山内氏を擁護したり、そうでなくても問題を矮小化する人々が次々に出てくるのはなぜだろうか。よく知らずに思いこみで擁護しているのだとしても、山内氏と会話をして発言を追っていけば、山内氏こそが北村氏に執着していることは嫌でもわかるだろう。
 そして北村氏が草津町長を強姦魔扱いしたという話は知らないが*2、本当に山内氏らが事実誤認による誹謗中傷が問題であると思えるなら、まず多数の事実誤認や揶揄が争点になっている事実を認めて北村氏に謝罪してはどうだろうか。

*1:現ポスト。

*2:草津町の動きに風刺映画を引いたツイートをおこない、謝罪したことは知っている。しかしその北村氏の事例のように、草津町が全国的に注目されたのは性暴力の疑惑そのものよりもリコール運動がおこなわれてからだった。性暴力を報じたとされた記事を実際に読むと、リコールを疑問視しつつ性暴力の事実関係ははっきりしない位置づけであったりして、必ずしも断定する論調ではなかった。 hokke-ookami.hatenablog.com