“テキサスブロンコ”テリー・ファンクさん死去、79歳…WWEが発表「世界中のファンや仲間たちから尊敬」

“テキサスブロンコ”、“テキサスの荒馬”と呼ばれ日米で絶大な人気を誇ったプロレスラー、テリー・ファンクさんが亡くなったことが24日、分かった。79歳だった。世界最大のプロレス団体「WWE」が公式ホームページなどで発表した。
WWEは「WWE殿堂入り選手のテリー・ファンクが79歳で亡くなったことを知り、悲しんでいます。その粘り強さ、心で世界中のファンや仲間たちから尊敬されているテリーは、四角いリングの中にこれまで足を踏み入れた中で最もタフな男の一人として記憶されるだろう」と追悼した。
テリーさんは、1944年6月30日にプロレスラーのドリー・ファンク・シニアの次男として生まれた。テキサス州アマリロで育ち兄のドリー・ファンク・ジュニアと共に父からレスラーとしての英才教育を受け、1965年12月28日にプロレスデビューした。1975年12月にはジャック・ブリスコを破り当時、世界最高峰の王座だった「NWA世界ヘビー級王座」を奪取し米国マットでトップに立った。
日本には1970年6月に「日本プロレス」へ初来日。ドリーとの兄弟タッグ「ザ・ファンクス」で1971年12月7日に札幌中島体育センターでジャイアント馬場さん、アントニオ猪木さんの「BI砲」を破りインターナショナル・タッグ王座を獲得した。
さらに1972年10月に馬場さんが旗揚げした「全日本プロレス」では、旗揚げシリーズから参加。必殺技「スピニングトーホールド」を引っさげ甘いマスクで人気となったが、絶大な支持を獲得したのは、1977年12月15日に蔵前国技館で行われた「世界オープンタッグ選手権」最終戦でドリーとのタッグでアブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シークとの一戦だった。ブッチャーのフォーク攻撃で右腕を突き刺されながら耐え抜き優勝。感動的なシーンにプロレスファンの心をわしづかみにした。
以後、ブッチャーとの抗争は全日本のドル箱カードとなり全日本プロレスのトップ外国人に君臨。さらに、レスラーだけではなく外国人レスラーを招へいする担当として馬場さんを支え、81年12月には新日本プロレスからスタン・ハンセンを引き抜くなど団体の隆盛に貢献した。
膝のケガで1983年8月31日に蔵前国技館でドリーと組んでハンセン、テリー・ゴディとの一戦で一度は現役を引退したが、84年8月に復帰。その後、WWF(WWE)と契約し、ヒールとして全米で人気を獲得した。以後、WCWなど様々な団体を渡り歩き、日本でも新日本、FMWなど多団体に参戦し、2009年にドリーと共にWWE殿堂入りを果たした。日本での最後の試合は2014年12月11日、東京愚連隊の後楽園ホール大会でミル・マスカラス、船木誠勝とのタッグでNOSAWA論外、藤原喜明、カズ・ハヤシと対戦した一戦だった。最近では、認知症の治療を続けていると、報じられていた。