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【追悼・木内幸男さん】負けた理由を探して 単身取手を訪れた16歳の桑田真澄…84年夏決勝 取手二VSPL〈9〉

スポーツ報知
決勝で敗れ、甲子園のグラウンドを去るPL学園・桑田 

 「はっぱかけたげる さあカタつけてよ~」

 スピーカーから流れる中森明菜の「十戒」とナインの掛け声が、秋空に溶けていく。

 真夏の激闘から2か月。

 遠くに見える筑波山は、徐々に色づき、紅葉のシーズンを迎えつつあった。

 桑田真澄が取手二のグラウンドにやってきた。16歳はカルチャーショックを受けた。そこは普通の県立高の校庭だったからだ。

 エースの石田文樹に尋ねた。

 「いつもこんな環境で練習しているんですか」

 「そうだよ」

 目の前の風景は、野球エリートが集い、全寮制で競争が繰り広げられるPL学園とは全く違う。専用球場も室内練習場もない。部員たちは好きなカセットテープを持ち込み、松田聖子らの歌謡曲をBGMに、笑顔で汗を流していた。

 桑田「一人で行ったんです。取手二の皆さんとは全日本の韓国遠征で一緒になって、仲良くなって。『見に行っていいですか?』と頼んだら『いいよ』って」

 優勝メンバーは1学年下の桑田を歓迎し、もてなした。正捕手だった中島彰一は笑顔で言う。

 「桑田君ならではでしょう。普通の高校生だったら、そんな破天荒なことはしませんよ」

 なぜ負けたのか。何が足りないのか。どうすればもう一度、優勝できるのか。

 桑田は答えを探していた。

 桑田「どんな環境で練習していたら“のびのび野球”になるのか、見たかったんです。目標が同じでも、様々なプロセスがあるというのをあの時、知ったんですよね。僕がそれまで知っていた野球が全てではない。いろんな方法があると」

 桑田は大阪に帰ると、監督の中村順司やナインと話し合い、チーム改革に取り組んだ。選手が最大限に力を発揮できる雰囲気を醸成することが、全国制覇するためには必要なんだ―。

 高校3年間で夏に唯一、喫した黒星。単なる1敗で終わらせるつもりはなかった。

 桑田「あの敗戦が僕を大きくしてくれたんです。負けた―という点だけを見るとマイナスかもしれませんが、10年後、20年後、30年後にはすごくプラスをもらったと思える。いろんな経験をすることで、自分の考えも変わってきた。選択肢が増えて、自分の理論ができあがった感じです。勝つことも大事ですが、野球は失敗のスポーツ。そこから何を学ぶかだと思います」

 あの夏、聖地で投げ合った石田は08年7月15日、直腸がんのため天国に召された。41歳だった。

 桑田「優しい人でした。『野球はスポーツだから、楽しくやらなきゃいけない』と教えてくれたんです」

 石田の死から4年後。二人のエースは再び、不思議な縁で結ばれることになる。(加藤弘士)=敬称略=

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