ヨーロッパ文明の起源

ギリシャ神話に、フェニキアの女王エウロベというのが登場する。エロウベ=ヨーロッパの語源である。彼女はレバノンあたりに住んでいた。それをゼウスが一目ぼれして、牛に化けて、背中に載せて海を越える。これを「エロウベの誘惑」という。こうしてギリシャ=ローマ文明に始まるヨーロッパの輝かしい時代が花開く道スジとなるが、そのギリシャは、オリエントとの混血だということは、ヨーロッパ人は忘れている。
ギリシャ神話で扱う地域は、せいぜいレバノン・シリア・バビロンまでで、エジプト文明より500年早くバグダッドのアッパース王朝が栄え、エジプトがメソポタミアやシリアと交易や王家同士の婚姻をしていたこと、要するにエジプトとペルシャの文明が一緒になってギリシャ文明が出来たことをシカトして、ボッチチェリの如く地中海からヴィーナスが湧いて出たように歴史を描く。以降、id:hizzz:20090204でさらったように、自己定義を深めてヨーロッパ中心主義史観を発達させる。その過程に於いて、邪魔な「他者」は、「野蛮人」という役に押し込めてその歴史と意識を奪った。
さて、911以後、「テロ問題」をめぐって経済&軍事力で制圧しようとする米国と、「原理主義」に凝り固まったテロ組織との『文明の衝突』ハンチントンが取りざたされているが、その「衝突」とやらに登場している重要組織がもうひとつある。それが、かくいうヨーロッパ。それまで、トルコ人であるとかモロッコ人というように、民族を名指しして外国人排斥してた傾向にかわって、911以降「ムスリム」全般を除外するようになったという。そんな欧米の仕儀にいち早く反応したのが、ヨーロッパの進展と反比例するように埋没してはいかなかった地域を、「黄禍論」で脅威化して伝播させ収容所おくりされた日系を含めたアジア系米国人たち。>id:hizzz:20080315
アフガニスタン&イラク戦争批判でアメリカによるイスラームに対する優越感と差別や、恐怖の裏返しとしての敵意は、ヨーロッパの方が実は、根強いのである。むしろ「ブッシュのアメリカ」と呼ばれた薄いアメリカなんかよりも、国家理念&国民国家原理原則を堅持しようとする元祖・本家ヨーロッパこそが、その本質と信じられている分だけ一元主義となって、ムスリムなどの他者を追い詰め、相容れない衝突を引き起こしているのではないだろうか?
…てな訳で、ヨーロッパに於けるイスラーム関連を、幾つかさらってみる。

フランスのスカーフ着用事件

フランスには、ヨーロッパ各国では一番多い約500万人のムスリムがいると推定されている。マグリブや西アフリカそして東南アジアといった植民地から移民してきた人々である。
事の起こりは1989年。公立中学で3人のムスリム女生徒がスカーフ着用して登校した。校長が取るよう命令したが3人は拒否、その結果、授業を受けることを禁じられた。これが後にヨーロッパ各国へも飛び火した「スカーフ論争」のきっかけとなった事件である。
スカーフ着脱派および政府見解としては、これはフランス共和制主義の大原則に迄およぶ話なのだという。共和制市民というものは、各々が持つすべての属性を一旦捨てて=自律してから、完全なる個として社会の一員となることを求める。ゆえに、宗教を含めた出自といった個々の属性は、すべからく「私的」なものであり、学校等の「公的」空間とは厳格に区別されなければならないのである。宗教が支配した中世以来の歴史の教訓から、現在では「ライシテ」という公的空間における非宗教性の原則により、国家と教会を分離、公的領域では非宗教性を貫く世俗主義が国家の基本として運用されてきた。
そこから、宗教的意義に基づいたスカーフを着用することは、私的意義の表明→宗教布教につながり、何人も侵されない筈の人権を侵害しているとして、認められないこととなる。フランスのいう「博愛」とは、フランス共和国の原理原則に従う契約を結んで社会を構成するメンバーとして認知した場合にのみ、適用される厳しい愛なのである。
1994年にも再燃したが、これはすぐ鎮火した。しかし2003年、当時内務大臣だったニコラ・サルコジのフランス・イスラーム組織連合UOIF発言「フランスでは、身分証明書の写真は、スカーフなしで撮影しなければならない」が、大きく反発を呼ぶ。そして2004年2月、公立学校で宗教的信仰をこれ見よがしに示すような宗教的服装、標章など宗教シンボル着用の禁止、いわゆる「スカーフ禁止立法」が制定された。これには、ムスリムのスカーフの他、クリスチャンの十字架、ユダヤのキッパ(帽子)が同法の適用となった。

ドイツのスカーフ着用事件

植民地を殆どもたなかったドイツには、戦後個別雇用協定で移住してきたトルコ系労働者などの300万人というフランスに次ぐムスリムがいる*1。フランスの厳格な政教分離とは違って、ドイツは国家と教会を分離する明確な規定は無く、教育行政に関しては、州(ラント)が立法権限を持っており、地区ごとにその扱いが違ってくることとなる。
1998年、アフガニスタン出身女性教師がスカーフ着用して、教員不適格として採用拒否された。教師は裁判で争い、2003年勝訴した。行政裁判所は、教壇に立つキリスト教系修道女の修道服との兼ね合いで、スカーフ着用を合憲と判断した。が、しかし2007年上級行政裁判所は、学校法違反と違憲判断。結局、8つのラントがスカーフ禁止措置をとった。
こうして地域に依って判断が割れた訳は、ドイツではキリスト教教育が法的に保護されているのに、イスラーム教育の権利がないことが、公平性に欠けるとして、大きな問題となったのである。

*1:他の地域では、イギリス160万人、スペイン100万人、オランダ95万人、イタリア80万人、オーストリア34万人、ベルギー/スイス/スウェーデン各30万人、デンマーク27万人。@『イスラーム戦争の時代―暴力の連鎖をどう解くか』

トルコのスカーフ着用事件

ムスリムが多いトルコでは、「ライシテ」をモデルとした「ライクリッキ」というフランスよりも厳しい政教分離政策を取って世俗主義となっており、宗教を国家管理下に置いて制限している。
1925年帽子法で、フェズが禁止となった。しかし1968年、女子大学生がスカーフ着用して講義聴講を拒否された事件が起こる。1982年高等教育審議会がスカーフ着用禁止通達して、抗議行動が起こる。1988年「信仰によるスカーフ着用を自由とする」法案承認されたが、翌1989年、憲法裁判所で「スカーフ着用はイスラーム主義の政治的イデオロギーを表象してるため憲法の世俗主義違反。憲法上信教の自由は保障されてるが、特定宗教シンボル着用は、周囲の人々に対する抑圧につながる可能性があり、法の下の平等に反する。スカーフには男性から着用を強制される場合があることから、男女平等に抵触する。」と違憲判決。この原告が1998年欧州人権裁判所に提訴した。そして2005年、「国が服装に関して一定の法的規定を定めることは、ただちに人権侵害に当たらない。トルコでは過去の経過からスカーフが政治シンボルになりやすいため、非着用者の権利と自由を守り社会秩所の平穏を保つために、スカーフ禁止には合理性が認められる。ヨーロッパ人権条約では信仰や表現の自由は保障されているが、スカーフの禁止はトルコの完全な民主主義実現のためには必要である」と人権条約違反にあたらないと敗訴した。

ジェンダーイシューとしてのスカーフ着用問題

今度は個人的見地から見てみると問題は、当人/ムスリム/社会の3つの段階にある。個人的には、端的にいって、ムスリム女性に対してスカーフを取れとは、セクシュアル・ハラスメントに値する。当人が文化的に「慎み」の意味で覆っているものを公衆の面前で取れとは、スカートを脱げと強制するのと同等な、人格権の問題だということ。
ムスリム集団的には、女性のスカーフだけが問題とされるそのようなモラル強制は、男女平等論理的不整合である。ムスリム男性の身体装飾的表象としては、顎髭があるのだが、これはトルコ以外では「ファッションスタイル」の一つとして不問になっている、男女差別的なところだ。
社会的には、スカーフを脱がせることは宗教・男性社会の抑圧からの女性解放だと信じてやまない、ヨーロッパ/フェミニズムのパターナリスティックである。ヨーロッパ的論理では男女平等が年頭にあってスカーフ着用を問題視するのであるが、それがターゲッターにとっては恥辱=セクハラでしかない。トルコでやっと出てきた判決理由で「スカーフには男性から着用を強制される場合があることから、男女平等に抵触する。」というが、少なくとも原告女性は自らの意志でスカーフを着用してるのである。
どうして彼女達は、そこまでしてスカーフを着用しようとするのか?イスラームの戒律では、女性としての性的特徴を表している身体部位を隠せということだけで、どこをどこまでどのように隠すかについての具体的指示は、コーランにはない。またキリスト教と違って、イスラームには教会組織がまったくないので、自分がムスリムとして何をどこまで実践するのかということは、実は誰も問えない。そもそも「公と私」の区別がありえない。なので、自分の考えでスカーフやベールを身にまとうこととなり、基本的には個人的見解によって、その仕儀も自由に変更しているものである。そして実は、今日的にスカーフを被ることは、男性からの抑圧ではなく、むしろ男性からの現代的な性的視線から逃れる為の意味がある行為だと、内藤正典は指摘する。

父親からの自由を得るために、イスラーム法学の理解を深めて、スカーフを被ってしまう。それによって、それ以上の自由の束縛を拒み、父親の無知を指摘する女性がでてきています。そうすると立場は逆転してしまう。スカーフを被ることによって、自由を手にすることもあるのです。
コミュニティ内部の争いにもこの原理が使われる。移民である彼らを受け入れたヨーロッパ社会に対しても当然使う。世俗主義により個人の自由を重視する形で統合を進めようとしたフランスに対しても、あるいはコミューナルな統合を前提にしたイギリス、アングロサクソン型にしても、実はムスリムはどちらにも対応できるのです。決してフランス型に対応できない訳ではない。フランス社会に対しては、身体の露出を大きくしたら女性が解放されるなどという馬鹿げた論理はありえない。むしろ、身体の過剰な露出こそ、女性の性を商品化する行為ではないかとフェミニストに向けて反論してきます。

内藤正典『神の法vs.人の法―スカーフ論争からみる西欧とイスラームの断層』

しかしそれが理解されず、「ムスリム女性=ムスリム男性によって虐げられた存在」というステレオタイプのシンボルとして、目につく「スカーフ」がクローズアップされてしまった。エリザベス・バダンテールは、スカーフ禁止法こそが女性を性差別の抑圧から解き放つプラス・シンボルの意味を付与されるとまで言う。その論理は、スカーフ禁止法に反対することは男女平等に反対すること、すなわち反民主的行為であるという世論へと誘導した。
このパターナリズムには、実は先例がある。それが1958年のアルジェリア独立戦争だ。戦争終結時、現地では独立に反対する人々が集められ「フランスへの帰属」を主張する集会の中で、ヴェールを被ったムスリム女性たちが檀上に上がり、大衆の面前で「フランス女性」の手を借りてヴェールを脱ぐという儀式がおこなわれた。以後アルジェリアではムスリム女性解放の名の下に、同様の儀式が行われたり、ヴェールが焼かれたりした。その手をかした「フランス女性」とは、軍人の妻たちが設立した「女性連帯運動」メンバーであり、国際社会から非難に晒されかねない、「独立運動の弾圧」が、「ムスリム女性の解放」や「非文明社会の近代化」という「使命」、そして「正義」に変換されたフランス軍による、国策フェミニズムを利用したプロパガンダであった。しかしそのセレモニーが、西洋世界に広く報道され、抑圧の象徴としてのヴェール&スカーフを深く印象づけた。

スカーフ着用で表象されるアイデンティティ問題

結局、「ムスリムのスカーフ」が問題なのではなく、フランスのドイツのトルコの「ヨーロッパのスカーフ」が問題となっている訳である。
スカーフを着用する娘の多くは移民またはその子供であり、ヨーロッパ社会の自由を謳歌しながらも(差別を含む)様々な要因から完全同化は出来ないとなったとき、周囲の西欧的価値とは違う自らの自律を考えうるに、ルーツであるイスラーム的な価値を引き寄せて個人主義的に「自分らしさ」としてムスリムをアイデンティファイするというのは、実はきわめて西洋近代的価値観に基づいた個人像を作るあり方が、ヨーロッパ的価値観では、承認されないのである。スカーフ着用は抑圧の産物ではなく、逆に自らを解放した積極的で自律的な立場表明、それはリベラル・デモクラシーではないのか。そういった個人のアイデンティティに関わる考察に至らず、表面的なスカーフ着用にばかり拘泥する「ヨーロッパ的普遍」とやらは、はたして本当にリベラルなのかと、逆に懐疑に晒される。

近代的な個人像を基礎に置く社会が、20世紀に入り新しい問題状況に直面するようになったとき、<アイデンティティ>をめぐる問題は質的に変化することになった。すなわち、<アイデンティティ>の問題は、価値の相対化された社会における各個人の<自分探し>の問題にとどまることはできなくなってしまった。一方で、近代化を指導し同化し画一化を推進した支配的な社会体制に対して、先住民族や、地域文化に生きる人々からの反撃が行われるようになり、他方で、新たに流入したムスリム移民からの宗教意識に基礎をおいた要求が次第に強くなっていくことになった。
これらの問題群においては、<アイデンティティ>は、もはや単なる個人の問題でなく、支配社会や支配的集団以外の何らかのマイノリティなどのグループや集団を前提とし、自己がその一員に属しているという主張と結びつくようになったのである。
<アイデンティティ>の問題がこのような仕方で提起されたとき、それは、多文化主義の要求として受け止められるようになった。すなわち、現在の支配的な社会体制は、近代社会の論理に基づいているのであるから個人がいかなる思想信条や宗教的意見を持つことも原則として承認されているはずである。しかし、そのような社会体制は、実は、ある特定の文化を前提としたうえで運営されている社会ではないのか、もしそうだとすれば、そのような単一文化の社会を多文化社会へと転換されることなくしては、マイノリティのグループや集団の<アイデンティティ>に根差した要求は満たされないのではないか、と問われるのである。

坂口正二郎

ムハマンド風刺画事件

ヨーロッパを駆け巡ったムスリムがらみの事件の二つ目。
事の発端は、デンマークで勃発した。子供向け絵本『クルアーンとムハマンドの生涯』用の挿絵を依頼したマンガ家達が、預言者ムハマンド*1を描く宗教禁止行為に抵触することを恐れて辞退した。だがイスラームの聖典クルアーンにもハーディースにも「肖像画禁止」という戒律文言がある訳ではない。あるのは「間違った情報の伝達」の戒めである。それが転じて、具体的記録がない預言者等の肖像はどう描こうが「正しく」ないという解釈のようだ。但しこの戒めを順守しなければならないのは、ムスリムだけか異教徒にも及ぶのかは、ムスリムによっても判断が分かれるようだ。
事件化したのは、作者コーレ・ブルイトゲンが上記のようなことで困っていると、中道左派新聞『ポリティケン』紙が報道したことによる。そのライバル紙でありデンマークで発行部数トップの保守系新聞『ユランス・ポステン』紙が、「自己検閲に抵抗する」という名目で風刺画を公募し、2005年9月『ユランス・ポステン』紙上に掲載された応募12点の「ムハマンドの風刺画」掲載した。中でも2点の作品が、ムハマンドを侮辱した表現だと問題となった。
ムスリムを中心として激しい抗議・デモが勃発したが、首相は「表現の自由」を盾に「謝罪する必要もなければ議論する必要もない」と会見拒否し、デンマーク政府も「表現の自由」を盾に掲載擁護に回る。これに国内の何紙かが賛同し「風刺画」を転載した。日本では理想的福祉国家としてイメージが高いデンマークは、ルター派フォルケキアケ(国民教会)が国教として憲法に明記されている保守的な面があり、女王もイスラームに敵対的な世論を支持する発言をしている立憲君主国である。

預言者に対する「冒涜」によってイスラーム教徒の出方を試し、その「試金石」を通じて「反民主主義的な存在である」ということをアピールする狙いがあったと思われる。このように排他的な感情を先導することが典型的なポピュリストの戦略であるし、選挙結果を見る限り、それはある意味で「成功した」かもしれない。近視眼的な見方をすれば『ユランス・ポステン』紙の読者層は伸びたし、デンマーク国民党(1995年に結成された「ネオナョナリズム」を掲げる親右翼、EU加盟反対)の支持率も順調に上がっている。ただ、いずれの狙いも国内に向けての戦略だったとすれば、大きな誤算は海外での反発であった。「デンマーク語だけで議論すれば安全」という誤った信念は、グローバル化した世界を軽視した事例としてマスコミの歴史に残るかもしれない。

森孝一『EUとイスラームの宗教伝統は共存できるか』

こうした報道やリベラル/ムスリム両活動家らの抗議宣伝行動で伝播した事件は、本来のコンテキストから離れ、各々の別のコンテキストに組み入れられ利用されていった。
4ヵ月たった11月、エジプト政府とアラブ連盟は駐デンマーク大使に抗議し、ついで同国で開かれた「イスラーム諸国会議機構」でこの問題の抗議声明が出される。選挙を控えたエジプト政府にとってこの問題は、イスラームの真の友好国であるとの演出に使うには最適なテーマであった。イランやシリアの公式報道でこれが大きく取り上げられ、官製デモが起こった。
2006年1月、このような反デンマークの動きに対抗して、ノルウェーの新聞が「風刺画」を転載した。この日は巡礼シーズン/犠牲祭の1日目という特別な日で、イスラームへの侮辱に対する挑発が読み取れるタイミングでもあったと、アル=ジャジーラは論評する。
サウジアラビア、リビアは自国の駐デンマーク大使を召還。宗教界がボイコットを呼び掛けたサウジアラビアでは、数日のうちに店頭からデンマーク製品が撤去されたという。6月、ダマスカスでデンマークとノルウェー大使館が放火、ベイルートでもデンマーク領事館が放火され、アラブ諸国でデンマーク製品不買運動が呼びかけられた。
そんな中、火種を撒いた『ユランス・ポステン』紙は、アルジェリアのデンマーク大使館を通して「世界のイスラーム教徒に対するお詫びの手紙」公開し、デンマーク福音ルーテル教会の教会と諸宗教対話委員会も、「挑発だけのために他者の信仰を挑発したり傷つけたりすることは何の意味もない」と「言論の自由と尊厳」声明を出したが、時すでに遅かった。

抗議運動は二つの方向性をとる。一つはイスラーム預言者ムハマンドに対する中傷への謝罪と処罰を要求する抗議運動の方向性であり、もう一つは西欧世界のメディア報道の中で言論・表現の自由を盾に転載された結果、イスラーム世界とキリスト教世界との文明対立、あるいはイスラームとキリスト教との間の宗教間の対立問題としての方向性である。
前者はイスラーム世界の方向性であり、後者は西欧世界の方向性である。西欧世界が言論、表現の自由を強調すればするほど、それを盾に西欧がイスラームへの攻撃を正当化しているかのようにイスラーム世界は感じ始めた。イスラーム世界の中には表現、自由を盾にしたイスラームに対する陰謀があるのではないかと疑義の念が生じ始めた。その結果、風刺問題は二つの宗教間の対立構造を描き始められていった。

四戸潤弥

元々西欧民主主義圧力に対して苛立っていたアラブ諸国政府は、「風刺画」問題を絶好な政治機会ととらえ、中東全域に広めた。またそこに、オサマ・ビン=ラディーンは「イスラームを征服しようとする欧米の十字軍」的行為の新たな発言として、欧米製品の不買運動と「十字軍との闘い」続行を、ムハマンド・ハサンはデンマークと同国方針を支持する国にテロ攻撃を信者に呼び掛け、アル=ザワーヒリーも従来の「西洋十字軍に対するジハード」主張の根拠の一つとしてデンマークに言及するなど、これに乗じて進んで火に油をそそぐイスラーム過激派声明が相次いだ。
こんなアラブ諸国の抗議活動に反発した「表現の自由」を掲げるヨーロッパ各地の新聞のいくつかが「風刺画」を再掲載しはじめ、かくしてイスラーム・バッシングはヨーロッ各地に飛び火した。

デンマークの一新聞の記事を発端としてこの事件がエスカレートし、世界に広がったのはグローバリゼイションゆえであり、その背景には、メディアに対する中央の規制機能が欠如していたこと、そして今回のような危機が一気に燃え上がる条件をそろえた地域が数多く存在していたという事実があった。
風刺画を転載した他のヨーロッパの新聞が、その行為を正当化するためにいかに熱く表現の自由について語ろうとも、その背景にはやはり複数の動機が存在していたのである。さらに問題が大きくなると、危機や戦争や対立と報じるメディアのセンセーショナルかつ敵対的な姿勢がこの問題を一層深刻化させ、エスカレートさせる結果を招いた。
こうしたなか、世界のジャーナリストや論説者には、今回のような危機やこの危機によって浮き彫りにされた諸問題において、自分たちが果たすべき責任をもう一度真剣に見直すことが求められている。つまり自分の背景にあるさまざな動機と果たすべき役割のバランスをどのようにして保つかということを検討しなくてはならないのである。エンターテイメントとしてのニュースと真面目な社会分析としてのニュース。表現の自由を守ることと節度ある会話を促すことへの責任。国内の安全保障と国際的な安全保障。検閲はのぞましいことではないかもしれないが、何らかの自己検閲なくしては、節度ある協力と共存を実現することは不可能である。
この微妙なバランスについて考え、最適のバランスを見極めることこそ、今回の風刺画の危機をきっかけに顕在化した課題の一つである。そしてこの課題がメディアだけでなく、我々すべてに突きつけられたものであることはいうまでもない。

ティム・イエンセン

*1:マホメットのこと。現在の教科書表記では全てムハマンドになってる。む〜ん(遠い目)。。。

ヨーロッパで沸き起こるイスラーム・バッシング

ミッシェル・モールが事情収集した時に採取した、事件を纏める感想としては「それは結局コップの水を溢れさせる最後の一滴だった」という。911以降、ヨーロッパにひたひたと広まっていたムスリム・フォビアに、火をつけたのである。
トルコ&モロッコ出身者が多いオランダでは、出自民族・宗教によるコミュニティ形成すら認めないフランスとは違って、公費負担によるイスラーム学校が次々と設立され、隣国ベルギーなのから越境入学者もいるという。商業的合理性を重視し、宗教に対しても多文化政策をとっており、新聞・放送といった分野にもムスリム系メディアもあり、リベラルな気風が定着していた。が、それが逆に作用した。個人主義が極まった相互不干渉による「我関せず」相互無理解なまま、自分たちが奉信するリベラル=「表現の自由」の名のもとに、メディアではいくつかの「風刺画」を再掲載したのである。また、2004年、問題表現の多いクルアーン風刺映画を作成したテオ・ファン・ゴッホ監督が、モロッコ系ムスリムに惨殺さるという事件も起きた。映画は「ムスリム女性解放リーダー」とされたソマリア人女性議員が台本を書き、ムスリム女性がいかに父親や夫をはじめとする男性に虐げられているかとういう内容で、虐待と忍従生活を語る女性は、胸から下はシースルーの全身ヴェールという欲情的な扮装であった。これはハーレムの「オダリスク」のステレオタイプを喚起させたものといえよう。
一方、オランダと並んでもっとも移民に寛容な国として捉えられてきたイギリスは、北アイルランド紛争を抱えて多文化政策をとっていた。そうした経過を踏まえて、マスメディアも「風刺画」掲載は見合わせていた。が、しかし、失業と階級格差はその「寛容」*1を超えており、2005年7月にロンドンで同時多発テロが起こり、社会は一気に閉鎖化に向かっていった。イラク戦争に積極参画したブレア政権は、テロとイラク戦争は無関係だとしながらも、ムスリム移民のコミュニティを穏健派と過激派に分けて、抵抗するものは監視・摘発・排斥する分割統治を開始した。
ドイツでは、いくつかの新聞が「風刺画」を再掲載した。「西洋では風刺が許されており、神を冒涜する権利もある。民主主義とは、言論の自由を具現化したものである」とヴェルト紙が論評。当初ドイツジャーナリズム同盟は、報道倫理に反すると批判したが、一転して「掲載は議論の機会を提供するものであり、一番初めに掲載したデンマークの新聞社とは『差異化』されるべきである」と主張。
さらに2006年ベルリン・ドイツオペラが、演出中にキリストやブッタと共にムハマンドの首がさらされるシーンのある、モーツアルト『イドメネオ』オペラの上演中止がこれに輪をかける。そのことをメルケル首相が「自己検閲だ」と批判し、文化メディア大臣も「表現の自由という民主主義の文化が危機にさらされている」と議論が沸騰した。
しかし「ベルリンのドイツオペラがモーツアルトの『イドメネオ』を上演しようとしたときに、演出でムハマンドの首を切ってさらした。これに反対したイスラーム組織はベルリンで2つしかなかった。我々は反対した。他の組織は、どうせ反対すると何かされるだろうと思って黙ってしまった。黙ってしまう方が多数派になると、ドイツ側では黙っている方が正常で、文句を言ってきた方が過激派だということになってしまう。今、そういう状況に追い込まれている。」と、抗議の当事者であるベルリン・イスラーム連合IFBのメンバーはコメントしたという。その事件の経緯を追った小山香衣は、「ドイツ社会は『イドメネオ』の上演中止にせよ、ムハマンドの風刺画にせよ、それに対するムスリムの反応をみることで彼らが「穏健」であるのか「過激」であるのかを判定する「踏み絵」として利用したのである。」と指摘する。
2006年9月、今度はキリスト教の総本山、ローマ教皇ベネディクト16世が「ムハマンドがもたらしたのは邪悪と暴虐だった」と言ったレーゲンスブルク大講義が騒動となる。教皇は「誤解を受けたことは遺憾であった」「相互に尊敬の念をもって、率直で真面目な対話を行いたい」とは声明をだしたが、謝罪や発言そのものの撤回はしてない。そして翌日「ヨーロッパ以外の地域で、キリスト教がこれほどまでに、その歴史と文化に影響を与えた地域は他にない」「EUの拡大やEU憲法についての議論のなかで、EU内の国家や国民にとってのアイデンティティと精神的根源は何なのかについてはつねに問われてきた。ヨーロッパ『全体』にとって、最も確実な根源は、歴史およびキリスト教と人道主義の伝統によって、この大陸において培われてきた共通の革新と諸価値の中に見つけ出されるべきである」「(EU内の)国家は西欧思想の根源とキリスト教精神によって養われてきた『愛の文明』の根源について、子供や若者に教育する義務がある」と『共通の革新─EUの根源』という声明を出し、その2日後に「注意深く私の講義を読んでもらえれば、中世の一人の皇帝によって語られた否定的で論争的な言葉は、私の考えではないことは明らかである」と講義に触れた。発言に対して謝罪したり撤回することはできない神の代理人だる教皇を頂点とするカトリックは、教皇発言は常に教会全体によって公認されることとなる*2。
この騒動については以前書いたがid:hizzz:20060921、この講義のどこがマズいのかといえば、ヨーロッパあるいは世界に於ける対立・抗争状況で、キリスト教暴力やイスラームにおける信仰と理性を語らないまま「ジハード」に触れ、宗教における「暴力」と「理性」の対立を一方的に語ったからだ。そのような例の挙げ方の講義を要約してみれば、「ヨーロッパやキリスト教世界は理性と調和した信仰の伝統があるが、イスラームにはそれがない為に暴力的になる。そうでなく西洋伝統的な理性で話そう。」と、受け取られても仕方のないものであるからだ。

イスラームとは「帰依」を意味する。イスラーム学は、アッラーに帰依する、つまりその御意志に適って生きるために自分は何をなすべきか、を問題にしてきた。言い換えれば、「人は何を要求できるか」との「権利の言語」を語る欧米の人権思想に対して、イスラームとは「人は何をなすべきか」との「義務の言語」に基づく教えなのである。そして今回の風刺画事件へのイスラーム世界の対応は、イスラーム的反応というよりは、むしろ欧米的反応なのであり、イスラーム的な「義務の言語」の準拠枠が失われ、「権利の言語」を教える欧米思想が広まりつつあること、つまりイスラーム世界の欧米による文化植民地化の深化を表現しているのである。
言論の自由などというものは実はどこにも存在しないのであるが、自分たちには「言論の自由がある」との「幻想」は確かに存在する。この幻想の存在が、預言者風刺画事件の間違った認識、すなわち言論の自由と宗教の尊厳の対立、との誤解を生み出しているのである。
欧米には「言論の自由」を享受しているとの自己イメージが存在しているが、それは幻想に過ぎない。いかなる社会も言論のさまざまなコードを有しており、「自由」と表象される範囲もまたそれぞれに異なる。欧米社会とイスラーム社会との間でも、言論のコードは異なり、それに応じて「自由」と表象されるものも異なる。存在するのは「自由と抑圧の対立」ではなく、「自由、抑圧と表象されるもの、それぞれの社会での間での相違」である。イスラームの価値観と「言論の自由」の対立、といった誤った構図で問題を誤解しないためには、我々は「自由」の幻想を捨てる必要がある。

田中考

結局、「表現・報道の自由」主張ばかりに囚われて、人種差別反対主義に対するコミットメントとそこから派生する人間社会に対するコミットメントについての表明をしなかった=相互交流なしの一方通行だっために、侮辱的であるという印象をムスリムに与え続けて亀裂をより深めたということである。

*1:日本語の「寛容」と英語・オランダ語では、元来その示す意味が違い、相手への敬意とか温かさ的なことは含意されておらず、許容=耐えられる的ニュアンスの語彙だという。

*2:とはいえ、すったもんだしたホロコースト否定した司教の破門解除問題では、結局陳謝することとなる。>http://www.asahi.com/international/update/0312/TKY200903120254.html 

ホロコーストと比較される、ムハマンド風刺画事件

南アフリカ聖公会大主教のデズモンド・ツツは、風刺画に対する憤怒を「その動機に対してではなく侮辱に対する反応」「起きたこととその後の余波がより深刻な病気な症状として見られてきた。もし関係が違ったものであったなら、風刺画は掲載されたなかっただろうし、掲載されたとしても異なる形で対応されただろう」「人々の信仰や習慣、宗教を侮辱することは言論の自由ではありません。これはイスラーム世界に限ったことではない。私たちは他国民の信条や宗教を、自分がそれを信じるかどうかに関係なく尊重しなければなりません。それらを信じない場合や認めない場合には、討論や知的な取り組みによってそれらに異議を唱えなければなりません」と、表現の自由にも義務が伴うことに注意したうえで、「題材がホロコーストであり、ユダヤ人が侮辱されたと考えられるような方法でホロコーストが扱われた場合、デンマーク政府や国際社会の反応は現在論争の的になっている風刺画に対するような反応となっただろうか」、北アイルランドのプロテスタントとカトリック、オクラホマ市の爆弾テロリスト、そしてナチスにさえ「キリスト教のテロリスト」のレッテルが貼られなかったのは何故なのか、と疑問を投げかける。「クー・クラックス・クランについて考えてみてほしい。彼らは十字架を自分たちのシンボルにしており、他者に対する嫌悪を伝搬させ、リンチを奨励している。にもかかわらず誰かが『キリスト教がいかに暴力を奨励しているかという例だ』と言うのを聞いたことがない」と語る。
2006年2月、イランの『ハムシャフリー』紙は、「西側諸国は言論の自由を、アメリカやイスラエルの犯罪、ホロコーストにも拡大するだろうか。それとも言論の自由は、宗教的尊厳を傷つけることが唯一の目的だろうか」と、西欧における「表現の自由」の二重規範を問いかけ、「ホロコースト」を絶対視する西欧&イスラエルに対して、「ホロコーストの風刺画」コンテストを世界に呼び掛けた。アフマディネジャド大統領はこれを全面的支持して、「ホロコーストは神話である」と発言した。
無論、これに対してイスラエルは猛烈抗議した。が、しかし俳優兼舞台監督アヤル・ズッスマンは、イスラエルの各メディアに「デンマークの新聞社がイスラーム教徒を愚弄する風刺画を掲載し、騒動を引き起こした。イランの新聞社はホロコーストの風刺画コンテストを実施して対抗した。今日イスラエル人のグループが、イスラエルにおける反ユダヤ主義風刺画コンテストの開催を宣言する。」という開催宣言文を送りつけた。「ユダヤ人こそが最も反ユダヤ主義の憎悪に満ちた風刺画を書く能力があることを、世界に示そう。イラン人にホームグラウンドで負けるわけにはいかない。」と自虐ネタで対抗したのだ。2006年2月「イスラエル人による反ユダヤ主義風刺画コンテスト」を主催し、世界各国のユダヤ人から100点を超える応募があった。
Israeli Anti-Semitic Cartoons Cintest http://www.boomka.org

「表現の自由」とは、「信仰の自由」とまったく同様、表現(信仰)「する」自由と、表現(信仰)「しない」自由の両者抱き合わせで初めて成立するものである。確かに風刺画家には、一部の人々において表象が禁じられている対象を描き出す自由がある。しかし、描かれたものに対して当事者から抗議の声が発せられた場合、その種の抗議そのものを「表現の自由」に対する脅威、挑戦とみなし、「ムハマンドがテロリストであったわけではない」という自明の理にもかかわらず、自由と権利の名の下にことさら表現を続け、転載を断行しなければならないと考える人々は、もう一方の「表現しない自由」を自ら進んで放棄していることに気づいていない。「人が何かを表現しなければならないという義務感に駆られる時、表現の自由なるものが一体どこにあるというのか?」(ボレロ)。事実『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』誌の編集長ジャン・ダニエルのように、自誌に風刺画を転載「しない」ことによって「表現の自由」を健全に保とうとする姿勢を選択した人々もいる。他方、「相手がそれ(ムハマンドの風刺画)を表現の自由と呼ぶのなら、こちらはこれ(ユダヤ人惨殺の否定)をもって表現の自由を行使しなければならない」と考える人々の側も、いわばポトラッチ的に自らの自由(真実探求の自由、歴史解釈の自由)を破壊していることになる。こうして「表現の自由」とは、敵対感情の競い上げから二次的に発生する「表現の義務」によって足下から掘り崩されていくものなのである。

ナディーム・アミーン

トルコのEU加盟問題

ムスリムが国民の大半を占めるトルコは、1923年の建国以来、近代化、文明化の見本としてのヨーロッパに憧れ、その一員となることを目指してきた。さまざまな西欧化改革を断行し、西欧型の国家を作り、紆余曲折を経ながら40年以上EUへの正式加盟を目指しつづけてきた。その加盟交渉の中で問題になってきたことは、政治的・経済的状況がヨーロッパ基準に達していないということであって、彼らがムスリムであることではない。
トルコでは軍部が世俗主義を率先して支えイスラームを公的に持ち込むことを監視し、組織を改革して西欧化し、ヨーロッパ入りを目指してきた。先のスレッドに書いた通り、欧州人権裁判所による裁定では、スカーフ禁止が法として抵触しないのであれば、スカーフ着用も又、人権侵害には当たらないという解釈も成り立つ。そこで世俗主義を補完する条項を改正することで、弾力的運用を図り、2008年2月に大学生のスカーフ着用を解禁した。これは、個人の権利を拡大し、信仰実践を自由化することによって、信教の自由を拡大させ、世俗主義を柔軟なものに変えて、ヨーロッパ的多文化主義に移行していこうとする現れでもあるだろう。この流れを受けて、女学生だけではなく、大統領夫人などのセレブが、公的な場でもスカーフ着用するケースが出てきた。
トルコ国内にある民族問題としては、クルド人問題がある。1500万人ものクルド系住民が暮らすトルコにとって、イラクからクルド人の独立運動が波及することは、国家分裂の危機を意味する。世俗主義と国民・国土の不可分という二大原則は、憲法第四条で改正及び改正の発議さえ禁じられており、トルコ共和国という国家が存続する限り変更できない。のこる手立ては、クルド系住民の存在と権利を、何らかのかたちで法的に保障するよう解釈改憲して、弾力運用することである。こうして厳格な世俗主義・単一民族主義から、多文化的な方向にトルコは変容していった。スカーフ解禁もその流れの一つに収まった。が、しかし、その結果として、中東で唯一、西欧的な民族国家を自力で勝ち取り、世俗主義と国家主義という堅固な基本原則を維持してきたトルコは、崩壊の危機に陥る。
そこに油をそそいで、EU加盟に何癖を付けているのが、当のヨーロッパなのである。ここにきてトルコはヨーロッパか否かが、詮議されたのである。EUで制定した加盟国が批准すべき法の総体系『アキ・コミュノテール』id:hizzz:20081227#p4には、加盟国に格差をつける条項は存在しない。
まず、オーストリアが、トルコが加盟すると、東から流入する移民がますます増加する可能性があるとの危惧から、「特権的同盟関係」に留めようと持ちだした。経済的には関税同盟を結び、治安やテロ対策などの分野では協力するが、域内への自由移動は認めず、加盟交渉過程で候補国が与えられるはずの経済開発支援や農業支援はしないというもの。これは元々ドイツのキリスト教民主同盟/社会同盟が主張していたことで、フランスもこれに同調した。が、トルコの抗議でこれは取り下げられた。
次にフランスが、キプロス事前承認をせまる。「特権的同盟関係」に同調した次期大統領候補サルコジ内相に対抗する形で、シラク政権下メルケル首相が、キプロス共和国の承認を事前要求するという、自国政局がらみの得点稼ぎであった。サルコジの選挙公約が「トルコのEU加盟反対」だったのだ。キプロスに関してフランスは、何のアドバンテージも持っていない、まったく関係のない事柄であったのだ。
トルコとギリシャが二分していたキプロス紛争は、1983年トルコ系が北キプロス・トルコ共和国として独立宣言。1999年国連アナン総長の連邦制提案が失敗した後、2004年ギリシャ系だけがキプロス共和国として、トルコよりも先にEU加盟承認されてしまったのだ。
そしてオランダが、拡大するEU自体に警戒心を抱く。小国オランダは最大のEU拠出金を支払ってる見返りが少ないことが最大の国民の不満で、それもあって欧州憲法条約批准の国民投票を否決したのである。
そんなつれないヨーロッパの数々の疎外的な仕打ちに接して、現在のトルコでは、大いなる失望感にあふれているという。本当は、ヨーロッパと取り入れ自文化を変容してきたトルコのような存在こそが、イスラーム世界とのクッションとなり、ヨーロッパにとってイスラーム世界との懸け橋としては、欠かせない国となるであろうに。ムスリム・フォビアを煽ることは、ヨーロッパにとってなんの利益があるというのだろうか?

2004年以降のEU各国市民の反トルコ感情には根本的な矛盾がある。トルコよりも東に位置するイラク、パキスタン、アフガニスタンなどで、イスラーム主義勢力の台頭が地域の不安定化を招いていることにEUは深い懸念を抱いている。トルコをEUの内に取り込むことで、イスラーム圏との接点をもつことができる。イスラーム過激派を抑止するためのノウハウをトルコは蓄積している。この点が、トルコを加盟させることの戦略的意義として認識されてきた。しかし、トルコもまたイスラーム圏のなかにある。だからトルコをヨーロッパの一員にはしたくないという思いを抱くEU市民は多い。
トルコとヨーロッパでは、文化の多元性に関する方向性が正反対になってきるのである。トルコが、EUの圧力で、遅まきながら民主化と自由化をめざしたと解釈するのは単純すぎる。ヨーロッパでは圧力にさらされているイスラームが、トルコでは主導的な立場となって、自由と民主主義を求めている。それが、今後の中東・イスラーム世界と西欧との関係に、どう影響するかを注視する必要がある。

内藤正典『激動のトルコ―9・11以後のイスラームとヨーロッパ』

スカーフ着用をめぐる政治対立の深層─トルコ
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