息子と私とオートバイ
ロバート・M・パーシグ/早乙女忠『息子と私とオートバイ』書影。
本書は1976年9月に新潮社より発行されていた翻訳文芸書で、原題は『ZEN AND THE ART OF MOTORCYCLE MAINTENANCE(禅とオートバイ修理技術)』という。アメリカ本国で1974年に出版されるや瞬く間にベストセラーとなったバイク旅行記であり、一種の通俗的な哲学書としても今日まで長く評価され続けている。これが原書発表後わずか二年目という時期にわが国で訳出されていたのは、相当に早い翻訳例としてよいかと思われる。
巻末の「訳者あとがき」によると、原文からわが国の読者にとって煩瑣と思われる東洋思想の記述を一部省いた、抄訳の体である由。
見えているのは出版以来一度も繙かれず冷暗所に退蔵されていたと思しい、完全状態の一冊。四六判丸背カルトン装幀、単色刷り本文は通しノンブルで314頁ある。略式ながら本冊の天地には花布が貼られ、同色の栞紐も綴じ込まれている。これに画像の通りコート紙のカバー、および帯が巻かれているのは、1976年頃の文芸図書としてはごく平均的な仕立てといってよいだろう。帯にある「版権取得」の四文字が本書の訳出に賭ける版元の意気込みを表しているようでもあり、また原書に関する当時のインパクトが相当大きなものであったのかとも推察できる。
このサンプルは栞紐が製本所で挟み込まれて以来全く動いておらず、しかも本来なら繙読で磨れてしまう筈の本文用紙の頁小口も片眼鏡で観察したかぎり全然断面が崩れていない、正に製本出来そのままといったコンディション。網代綴じと思しき製本も一切緩みを見せていなかった。私自身はこれを通読した際に稀覯書を繙くのとまったく同じ注意を払いつつ取り扱ったので、当然ながら「廃墟自動車図書館」に新収して以来の損耗は皆無である。
著者パーシグ氏と息子のクリスが行ったアメリカ大陸横断ツーリングの軌跡を記した見返し紙をめくってすぐに別刷りのタイトルページが一葉綴じ込まれている。めくっての目次頁には「装幀・真鍋博」の素っ気ないクレジット。ここから約三百頁、四部構成で著者のスピリチュアルともいえるロングツーリングが展開されている。試みに1990年にめるくまーる社から出されていた新版、五十嵐・児玉訳(全訳)『禅とオートバイ修理技術』を添えた画像も上げておこう。
本書『息子と私とオートバイ』は、古本として探すには比較的手こずる本という印象だった。刊行に気付いてから二十年ほど古書界隈をパトロールしていても見つからず、忘れかけた頃に突然古書販売サイトで何冊も売り出され、暫くして潮が引くようにまた消えてゆく。狐に鼻を摘ままれたような気がしたものだ。
発行当時はバイク雑誌の新刊図書コーナーなどでも紹介されていたようだが、そして70年代当時のバイク乗りが共通して抱え込んでいた寂寥感とか無頼の気分に響き合う内省的なツーリング記なのでもあったのだが、実際にこれを読んだというバイク仲間を私は知らない。版元としても一廉の文芸書として書店の棚を飾りたかったのだろうし、恐らくバイク乗りからの需要などほとんど眼中にはなかったろう。だが暴走族の全盛期でもあったこの時代、文芸書の平台に積まれた本書を手に執った読書家連中で、「オートバイ」の文字にシンパシーを感じて帳場にまで持って行った酔狂者がどれほどいたものか。この出版は残念ながら需要と供給のミスマッチ、お門違いも甚だしかったのかもしれない。
訳も良いだけに、読みたいと思った人が読めない現状は大変残念。私としては重厚長大な全訳本よりも本書の方を、どこか慧眼の版元が、理解あるクルマ本の版元がネット書籍としてでも復刊してくれたらと、願って已まないのである。走りながら乗り手が深い哲学的思索に耽るという本書のシチュエーション、自動運転真っ盛りの現代にこそリアリティを増して、新たな共感を呼ぶかもしれないではないか。
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