昨日の大河ドラマ「光る君へ」見てたら、来週はまさかの刀伊入寇なんですね。刀伊入寇は「といにゅうこう」と読み、刀伊は東夷、入寇の「寇」は元寇の「寇」ですから、早い話が異民族の襲来。
つまり、「刀伊入寇」は、寛仁3年(1019年)3月末から4月にかけて、満州族の一派とみられる海賊が壱岐・対馬を襲い、さらに博多から肥前松浦にまで侵攻した事件です。
(↑福岡タワー越しに望む博多湾。)
というと、ほぼほぼ、蒙古襲来の元寇と同じコースですが、一般に元寇は教科書にも載っているので、良く知られているのに対し、こちらはそれほど知られていないと思います。
(つまり、元寇の前にも異民族襲来はあったということ。刀伊入寇の前には新羅海賊船の来寇などもあり、さらに、同じ、藤原道長の時代には南方海域の海賊が九州沿岸各地を襲った事件も起きています。)
主人公がやたら現場にいるのは、大河ドラマあるあるですが、まさか、その現場に非戦闘員の紫式部がいるとは思いませんでした(笑)。
(往年の大河ドラマ「黄金の日々」でも、主人公は、全然、関係ないのに、ご丁寧にも、比叡山焼き討ち、鳥取の渇え殺しの籠城戦にも巻き込まれ、いずれも、なぜか、無事生還。運が悪いというべきか、いいと言うべきか(笑)。)
(↑「黄金の日々」に敬意を表し、その舞台、堺。)
この事件の舞台となったのが、地元博多ですので、もちろん、私は知っていましたが、ただ、このとき、これを撃退するのに奮戦した藤原隆家については、「藤原藤原、いささか、多うござんす」で、恥ずかしながら、藤原氏の中のどういう位置づけの人かは知りませんでした。
というのも、仕方がない話で、藤原氏と言えば、始祖藤原鎌足に始まることは知られていますが、藤原仲麻呂、藤原広嗣、藤原薬子辺りまではともかく、藤原純友、藤原秀郷から藤原清衡にまでなると、あんたら本当に藤原氏なの?って気もしてきます。
で、隆家もそういう傍流の傍流の傍流の藤原もどきかと思っていたら、今回、「光る君へ」見てて、隆家が出てきたのを見て、「へー、道長の甥で、しかも、道長の難敵・藤原伊周の弟じゃない!」と認識を新たにしました。
で、まあ、隆家については、ドラマに描かれていたので、今さら言うこともないのですが、刀伊についてもう少しだけ触れておくと、刀伊は賊船約50隻に約3,000人が分乗して、対馬、壱岐を襲撃、多くの島民を殺し、生き残った島民を拉致、人家を焼き牛馬家畜を食い荒らしています。
壱岐では、賊徒来襲の急報を聞いた、国司の壱岐守藤原理忠は、ただちに147人の兵を率いて賊徒の征伐に向かうが、衆寡敵せず玉砕。
この辺も、元寇と同じですが、ただ、元寇の時は元の兵士らは船酔いに苦しんでいたそうで、事実、戦国時代に瀬戸内海を東上してきた毛利の兵は上陸したものの、船酔いで使い物にならず、そこを如水黒田官兵衛の奇襲を受け、敗退しています。
ましてや、内海の瀬戸内海と違い、波の荒い玄界灘で、ようやく、上陸したら、守備隊はわずかな兵で全滅するまで戦いを挑んでくる。
元軍の将兵は、硫黄島攻略後のアメリカ軍同様、この先、本土に進んだらどれだけの抵抗が待っているんだ・・・と思い、暗澹たる気分になったはず。
そう考えれば、内陸育ちの満州族はよく、さらに先の九州本土に向かおうと思いましたよね。

ただ、刀伊の目的は、元とは違い、侵略ではなく、どうやら、奴隷の確保、つまり、拉致にあったようで、日本で撃退された後、まだ、目標人員に足りていなかったのか、帰途、高麗沿岸を襲撃。
が、高麗水軍にはかなわず、撃退され、このとき、拉致された日本人約300人が保護され、日本に送還されています。
「高麗さんありがとう」と言うところですが、当時の朝廷は警戒心も露わにこれに相対します。
それも無理がない話で、日本側からすれば、そもそも、刀伊が何者かわからない上に、日本側に捕らわれた捕虜3名がすべて高麗人だったそうで、高麗が無関係とわかった後も、色黒(ここ、笑うところです)の藤原実資などは「どういう野心があるかわからない」として、冷淡な態度で処すことを主張しています。
さらに、朝廷は隆家に対しても、冷淡な態度をとろうとしますが、隆家はただの乱暴者ではなかったようで、刀伊の追撃を対馬までで控えさせた上で、このようなこともあろうかと、ちゃんと色黒(しつこい(笑)。)の実資に通じており、記憶力抜群の実資が朝議の席で寛平6年(894年)の新羅入寇の際の例を上げ、「今後のことを考え、恩賞を与えるべき」と主張し、結局、恩賞を与えることで決着したとか。
(このとき、道長はもう晩年で、太閤となって相談役会長のような地位にあったようですから、事実上、廟議の中心となっていたのは、実資ではなかったかと。)
最後に、そもそも、陸の民のはずの満州族は、どこで、多くの奴隷を積んで外海を渡れるような大型船を50隻も作ったのか・・・という気はします。
当時の満州族の中には高麗へ朝貢している者もいたと言いますから、元々、高麗人との関りは深く、たとえ、高麗王朝そのものは無関係でも、裏で仕組んだ高麗人がいたんではないかと。

そもそも、満洲族は、遠く、玄界灘の波濤を超えて、日本まで来るよりも、近くて往来が楽な高麗沿岸で海賊行為を働いたほうが良いはず。
それをわざわざ、日本まで来る。
それ以前から、高麗沿岸で刀伊は跋扈していたようですから、これに困った高麗人の中には、「うちよりもっと良い所がある」で日本へ向かわせたのではないかと。
しかし、思ったより航海は大変で犠牲も多かった割には、収穫が少なかったことで騙されたと思って、文字通り、帰りの駄賃で高麗を襲った・・・と考えれば、すべてのつじつまが合うのではないでしょうか。
平太独白