五・七・五のわずか十七音に詠み手の心情や風景を詠みこむ「俳句」。
この十七音を極め、民衆文芸だった俳諧を芸術の域にまで高めたのが、かの有名な俳人「松尾芭蕉」です。
芭蕉が残した名句は数多くありますが、今回はその中でも有名な【夏草や兵どもが夢の跡】という句を紹介していきます。
\今日は #旅の日 /
松尾芭蕉が奥の細道へ出発した日とか。夏草や
兵どもが
夢の跡出発の1ヵ月半ほど後、芭蕉が平泉で詠んだ句です。
芭蕉が訪ねたのと同じ季節の風を感じにいらしてみてはいかがでしょうか。#岩手においでよ pic.twitter.com/uL7lcvbpoX— いわてまるごと売込み隊【公式】 (@iwatemarugoto) May 16, 2018
芭蕉はどのような心情でこの句を詠んだのか、また詠みこめられた情景とはどのようなものだったのでしょうか?
本記事では、【夏草や兵どもが夢の跡】の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説していきます。
ぜひ参考にしてみてください。
目次
「夏草や兵どもが夢の跡」の俳句の季語や意味・詠まれた背景
夏草や 兵どもが 夢の跡
(読み方:なつくさや つわものどもが ゆめのあと)
この句の作者は「松尾芭蕉(まつお ばしょう)」です。
芭蕉は、江戸時代前期に活躍した俳諧師です。「俳聖」として日本だけでなく、世界的にもその名が知られています。
美しい日本の風景に侘びやさびを詠みこむ作風は「蕉風」とも呼ばれ、独自の世界を切り開いていきました。
また芭蕉は人生を旅そのものととらえ、江戸から東北・北陸など日本各地をまわり、俳句を詠みながら旅をしました。紀行文学の最高傑作とも称される『おくのほそ道』など、5つの旅行記を残しています。
季語
この句に含まれている季語は「夏草」で、季節は「夏」を表します。
夏草とは特定の植物を指すわけではなく、夏に生い茂る青草全般を意味します。
炎天下の中でも枯れることなく、抜いても抜いても生えてくる雑草からは生命力の怒涛を感じさせます。
意味
こちらの句を現代語訳すると・・・
「今や夏草が生い茂るばかりだが、ここはかつては武士達が栄誉を求めて奮戦した跡地である。昔のことはひと時の夢となってしまったなあ」
句中の「兵ども」とは、源義経やその家来、平泉で栄華を誇った藤原氏一族を指します。
また、「夢の跡」は、全てが過ぎ去ってしまい、今はもう何もない様子。人生の儚さが秘められている言葉になります。
この句が詠まれた背景
芭蕉が46歳の頃の作で、岩手県平泉町で1689年5月13日(新暦6月29日)に詠まれました。
この平泉は平安時代に奥州藤原氏が繁栄を築いた地として知られています。
兄の源頼朝に追われた義経は、藤原秀衡のもとに身を寄せますが、秀衡の死後、当主の泰衡に攻められてしまいます。居城を構えていた平泉の高館(たかだち)が義経最期の場所となりました。
それから約500年の月日が経ち、芭蕉がこの高館にのぼりあたりを見渡すと、かつての藤原家の栄華の痕跡はあとかたもありませんでした。
ただ夏草が青々と生い茂る風景を目の当たりにして、「全ては短い夢のようだ」と人の世の儚さを詠んでいます。
芭蕉は源平の盛衰について描かれた『平家物語』についても造詣が深く、悲劇の若武者・義経に対しても同情の念をもっていたことでしょう。
また、芭蕉は中国古来の詩人・杜甫(とほ)を尊敬しており、人間的にも芸術的にも大きな影響を受けていました。この句の前書きにも、杜甫の「春望」の一節を記されています。
「国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。」
現代語訳:杜甫は、「国が滅びても山河は昔の通りだ、城跡にも春になると青草が生い茂っている」と詠んでいる。私は笠を地面に敷いて、いつまでも栄華盛衰の移ろいを思って涙を落としました
このことから杜甫の詩を意識して詠まれた句だと分かりますが、芭蕉は「城春にして草青みたり」の春の草を「夏の草」に転じています。
これは芭蕉が今見たままの風景を表現し、生い茂っては枯れていく夏草に世の無常を象徴しているためといわれています。
「夏草や兵どもが夢の跡」の表現技法
「夏草や」の切れ字「や」による初句切れ
切れ字とは「かな」「けり」「や」などの語で、句の切れ目に用いられ作者の感動の中心を表します。
「や」は「詠嘆・感動」を意味し、最初の言葉を強調したいときに使われることが多い切れ字です。
この句でも最初の五音、つまり初句で切れているので「初句切れ」となります。
「夏草」に「や」の切れ字を用いることで「夏草であることだ・・・」と詠嘆が表現されています。
かつて栄華を極めた人々の生活や死闘を重ねた武士たちの夢が、跡形もなく消え去ってしまったことへの空しさが込められています。
「夢の跡」の体言止め
体言止めとは、文の末尾を体言(名詞・代名詞)で結ぶ表現方法です。
文を断ち切ることで言葉が強調され、その後に続く余情・余韻を残すことができます。
この句でも「夢の跡」と体言止めが使われており、読み手にその後に続くイメージを膨らませる効果をもっています。
この余韻から栄華や功名を求めて戦った時間が、今となっては一炊の夢のように儚い時間だと感じられます。
「夏草」と「兵ども」の対比
対比とは二つ以上のものを並べ合わせ、それらの共通点や相違点を比べる表現技法です。
それぞれの特性を強調し、インパクトを強める効果があります。
この句では「夏草」と「兵どもが夢の跡」を対比的に用いられています。つまり、自然の雄大さと人の世の儚さを並べることで、無常観を表現しているのです。
一面に生い茂る夏草の静けさやのどかさと、戦場にひびく雄たけびや極限の緊張感が見事な対比をなしています。
「夏草や兵どもが夢の跡」の鑑賞文
芭蕉は平泉の城跡に立ち、藤原三代の栄華と源義経の最期に思いを馳せたことでしょう。
前書きの「春望」の一節を踏まえると、よりいっそう夢幻感をかきたてられます。
芭蕉は「人々の行いや想いは時の流れとともに消えてしまうが、自然は関係なく営みを繰り返し続けていく」としみじみ思いこの句を詠んでいます。
しかし人間の思うことやなすことが儚く消えるからといって、悲観的に捉えているわけではありませんでした。
芭蕉は、たとえ夢のように儚い世でも、精一杯生きようとする人々の美しさを描いています。
この句からは栄華を極め、無残にも果てた者たちを偲び、供養や鎮魂とも取れる心情が感じ取れます。
「夏草や兵どもが夢の跡」の補足情報
平泉の古戦場跡と金色堂
「夏草や」の句と曾良の詠んだ「卯の花に兼房みゆる白毛哉」の句の後に、芭蕉一行は中尊寺を訪れています。
平泉の項目には「叢(くさむら)」という表現が2回出てきますが、「夏草や」の句と「五月雨の降り残してや光堂」の句の前に1度ずつ使われて、対比されているのが特徴です。
平泉の古戦場跡を見た際には、下記のように書いています。
「偖(さて)も義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の叢となる。」
(訳:それにしても、忠義ある武士たちはこの城にこもって戦い、立てた功名も一時の夢と消えて、今はその跡が草むらとなっている。)
一方で、金色堂を見た時は下記のように書いています。
「七宝散りうせて、珠の扉風に破れ、金の柱霜雪に朽ちて、既に頽廃空虚の叢となるべきを…」
(訳:七宝は消え失せて、珠を散りばめた扉は風に破れ、金の柱も霜や雪のために朽ち果てて、廃墟のように虚しい草むらとなるべきところを…)
既に夏草が生い茂る平原となった古戦場と、まだ当時の栄華の痕跡を残している金色堂の両方で「叢」を使い、より無常観を強めている対比です。
『猿蓑』に収録された2つの追悼句
「夏草や」の俳句は『おくのほそ道』に収録されていますが、その前に弟子の向井去来と野沢凡兆が編纂した『猿蓑』で発表されています。
そこでは、「夏草や」の句の前に、かつて芭蕉が若い頃に士官していた藤堂良忠、俳号としては蝉吟の句が並べて収録されています。
「大坂や 見ぬよの夏の 五十年」
(訳:かつて戦のあった大阪だなぁ。身も知らぬ祖父が戦死した大坂夏の陣からもう50年も経ったことだ。)
この句は、祖父である藤堂良勝が大坂夏の陣で戦死して五十年忌を迎えたことを受けて詠まれた句です。
50年も経つと大阪にも当時の戦の痕跡などなく、活気にあふれた城下町の姿になっていたことでしょう。
蝉吟は1642年に生まれていますので、1615年に戦死した祖父の顔は知らず、そのために「見ぬよの夏」と詠んでいます。
蝉吟は1666年に25歳の若さで亡くなっています。一方で、「夏草や」の句が詠まれたのは1689年、『猿蓑』が刊行されたのは1691年、『おくのほそ道』の刊行はさらに後の1702年です。
芭蕉にとっては蝉吟と過ごした時間も、蝉吟の詠んだ「五十年」に近い感覚だったのかもしれません。
芭蕉は『猿蓑』の監修を担当しているので、これらの句を並べたのは意図的でしょう。
50年も600年も同じように、遠い世で戦死した兵たちを追悼すると同時に、早逝してしまったかつての主であり友人への追悼の心も感じられます。
作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単にご紹介!
(松尾芭蕉 出典:Wikipedia)
松尾芭蕉(1644~1694年)は伊賀国(現在の三重県)に生まれました。
本名は松尾宗房(むねふさ)で、芭蕉は「俳号(俳句を作る人が名乗る名前)」になります。
農民の生まれだとされていますが、幼少期のことは明らかになっていません。10代後半の頃から京都の北村季吟に弟子入りし、俳諧の世界に足を踏み入れます。
俳人として一生を過ごすことを決意した芭蕉は、28歳になる頃には北村季吟より卒業を意味する俳諧作法書「俳諧埋木」を伝授されます。若手俳人として頭角をあらわした芭蕉は、江戸へと下りさらに修行を積みました。
芭蕉といえば「旅」のイメージが強いかもしれませんが、実は日本各地を訪れるようになったのは40歳を過ぎてからでした。
45歳の頃、弟子の河合會良とともに、「奥の細道」の旅に出ます。約150日間をかけて東北・北陸を巡り、全行程で約2400kmもの距離を歩いたと言われています。
山道も多かったであろう道を、初老の男性が歩いたのだとするとよほど元気だったのでしょう。尋常ともいえる体力や、芭蕉の出身地が伊賀であることから、実は忍者だったのではないかという説まで生まれました。
大阪へ向かう最中に体調を崩した芭蕉は、そのまま51歳の生涯を閉じました。亡くなる4日前には、病の床で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」という辞世の句を残しています。
松尾芭蕉のそのほかの俳句
(「奥の細道」結びの地 出典:Wikipedia)