🌀ぐるぐるねこ男ブログ🌀

ぐるぐるねこと一緒に暮らしている男の雑記ブログです(毎週月曜日に更新)

🆕✨学生時代に書いたレポート

ぐるぐるねこ男

 

年末の大掃除をしていると、大学一年生の頃に書いた一枚のレポートを発見しました。古い写真のアルバムが入った箱の、底の方に隠れるようにして残っていたレポートです。大学に入学した時に、僕たちは5人一組のグループを作り、医学部の研究室にゼミ生として配属されました。そこで約一年にわたって、研究室の教授をはじめとしたスタッフの先生たちといろんな問題についてディスカッションをしたりレポートを書いたりしていました。その中でも僕が大学生になって一番最初に書いた「安楽死」についてのレポートでした。すぐに捨てようかと思いましたが、当時の僕の素直な(そしてクソ真面目な)意見をこのブログの中にそっと残しておくのもいいかもと思い、今回は大学生になりたての頃の僕のレポートをそのまま転記することにしました。

 

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「ヒポクラテスの誓いを通じて安楽死について考える」

大学1年生 ぐるぐるねこ男

 

安楽死は殺人である。殺人である以上、生かすことを最大の目的とする医師にとって議論の余地などないはずである。安楽死を認めてしまえば医師という職業の存在意義がなくなってしまうのではなかろうか。そして、もし患者に安楽死の権利を認めるようなことになったら医師は十分な医療を患者に提供することができなくなるかもしれない。患者の、時には自分勝手かもしれない意志を尊重することにより簡単に死なれるわけであるから医師のやる気もなくなってしまうと思う。そもそも人間の言うことなんてあてにならない。自殺未遂の人が後に「あの時、死ななくてよかった」と言っていることなんてざらにある。「死にたい」と訴える患者の本当の真意も「死ぬほど苦しい痛みをわかってくれ」といったようなものであるかもしれない。孤独に陥る恐怖から逃れるために周りの注意を自分に集めようとした結果がこのような発言につながる可能性もある。このように、患者に意識のある場合は患者の本当に伝えたいことをわかってあげなければならないし、またその患者に”生”に対する執着心を持たせてあげるようにするのが医師の役割であると思う。次に、患者に意識がない場合の延命治療の是非であるが、栄養補給や呼吸の確保といったものは、健康な人間にとっても生命を維持するために最低限必要な要素となるものであるから、これらを積極的に中断するべきではない。また俗にスパケッティ状態と言う言葉があるが、これこそ見た目だけで判断してしまった健康な人間の暴言であると思う。今回の医ゼミで自分なりに考えた”医師にとって大切なこと”は、患者さんに「死にたい」と思わせないように誠心誠意つくす、ということである。一生懸命な姿を見せることで患者さんに”生”への執着心を植え付けることができるように努力しなければならないと思った。

 

あの頃は医療のことなんてこれっぽっちも分かってなくて、学生として医療の現場に出て勉強するのは、このレポートを書いた時から4年後なので、考え方は完全に偏っているし、文章の内容も稚拙で目もあてられませんが、でもまあ自分はこんなことを考えながら医学の勉強をしていたんだなあと思うと、なんだか恥ずかしくなってきて苦笑いをしてしまいます。

 

今年は年末にかけて若干気持ちが沈んでしまい、株式投資もやめてしまいました。でも僕が全力で運用して増やしたお金が誰かの役に立ってくれていると思うと「これでよかったんだ」って、なんだか久しぶりに安心することができました。

 

最後に、いつもの山道の散歩をしている時に、Podcastでたまたま聴いた茨木のり子さんの詩がめちゃくちゃ心に刺さったので、ここで読者の皆さんとシェアして今年最後の記事を締めくくろうと思います。

 

「自分の感受性くらい」

 

ぱさぱさに乾いてゆく心を

ひとのせいにはするな

みずから水やりを怠っておいて

 

気難かしくなってきたのを

友人のせいにはするな

しなやかさを失ったのはどちらなのか

 

苛立つのを

近親のせいにはするな

なにもかも下手だったのはわたくし

 

初心消えかかるのを

暮らしのせいにはするな

そもそもが ひよわな志にすぎなかった

 

駄目なことの一切を

時代のせいにはするな

わずかに光る尊厳の放棄

 

自分の感受性くらい

自分で守れ

ばかものよ

 

来年も引き続きよろしくお願いします。

皆様よいお年をお迎えください^ ^

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それではまた^ ^