「いじめ自殺」多発にもかかわらず、学校の有害性が問われない不可解

茨城県取手市・中3女子自殺事件【後編】
日本の学校からいじめがなくならないのはなぜか? それは有害な学校制度がいつまでも変わらないからである。茨城県取手市ではひどすぎるいじめ自殺事件が起きた。学校は事実を隠し、教育委員会は当初無視しつづけていた。いじめ研究の第一人者がこの事件を徹底分析する。
前回はこちら:日本の学校は地獄か…いじめ自殺で市教委がとった残酷すぎる言動(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52631)

首尾一貫した隠蔽工作

茨城県取手市で起きたいじめ自殺事件に関する市教委の行動を、「いじめがあった」とするのに役立つものと、「いじめがなかった」とするのに役立つものに分類すると、そのほとんどすべてが「いじめがなかった」とするのに役立つタイプになる。

逆に、通常であればしてもおかしくない行動のなかで、「いじめがあった」とするのに役立つ行動はことごとく選択されていない。

「いじめがあった」ということになりそうな調査を強いられる(あるいは、そうなることが予測される)場合は、調査の検出効力を最大限弱める努力がなされる。

さらに、これらの行動群の組み合わせに関しても、「いじめがなかった」とするのに役立つように、前の行動が後の行動の布石となっている戦略的コンビネーションを見出すことができる。

偶然の一致とはとうてい考えられない、上記のいちじるしい行動の偏りと組み合わせが、市教委の行動原理をくっきり浮き彫りにしている。教委の行動群は「いじめはなかった」と社会的現実を改変するための合理的戦略行動(隠蔽工作)として首尾一貫しすぎているのである。

さらにこれらは、嘘をつく、隠蔽する、誘導する、知らせない、調査の正確性を意図的に毀損する、といった職務に関する背任行為を多く含んでいる。

「いじめはなかった」とすることだけでなく、全般的に、利害計算が市教委の首尾一貫した行動原理となっている。

教委は利害損得によって行動しながら、なんとでも言える〈教育〉的なストーリーから都合のよいものを巧みに選択して「いいわけ」に用いている。

以上のことを報道に即して説明しよう。

 

教員はいじめを知っていた…?

中島菜保子さんの自殺直後、学校と市教委は、生徒に「思いがけない突然の死」と説明して自殺を隠蔽した。書類には「事故死」と嘘の記載をしている。しかも生徒の証言によれば、すでにこの段階で一部教員は「いじめはなかった」とのアピールをしている。

学校が熱心に遺族にしたことは、自殺でなく「不慮の事故」にしてほしいという依頼だった。学校は保護者会を開かないことにし、警察に口止め工作をし、これを市教委に報告した。

市教委と教員は――通常の判断能力を有する社会の成員であれば明らかに意味が了解可能(わかるはず)であるという観点から――菜保子さんの日記を読み、「くさや」と書いてある付箋紙を見た時点で、いじめがあった可能性が高いことを知ったとみなすことができる。

さらに以前からいじめについて教員に話をしていたという同級生の証言にしたがえば、一部教員はいじめを菜保子さんの自殺以前から知っていたことになる(『週刊文春』2017年6月15日の記事によれば、担任教員自体が実質的にいじめグループの一員であった可能性がある。知らないはずがないともいえる)。

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