社会学者・小熊英二氏が今年7月に出した新著『日本社会のしくみ』は、日本の雇用のあり方を分析することで、「日本のしくみ」を解明している。なかでもとりわけ興味深いのが、日本社会の根幹にある「正社員」という存在。日本の正社員は一般に考えられているよりはるかに「特殊な身分」だ。なぜ正社員という身分は生まれたのか。そしてこれからその「身分」はどうなっていくのか。小熊氏が語る。
日本ではなぜ「専門性」が重視されないのか
――『日本社会のしくみ』では、日本の雇用慣行の分析が中心に据えられています。なぜ雇用慣行について書こうと思ったのですか?
日本社会の全体像を解き明かすことを目指す過程で、日本の雇用慣行、特に「大企業正社員の雇用慣行」が、教育や福祉なども含めた社会全体のありようを規定していることに気がついたからです。
雇用慣行は社会のベースになっていますが、欧米では労働者の賃金を決める基準は職種ごとの専門性で、それは資格や学位で証明されます。
ヨーロッパ各国では、中世のギルドを母体として様々な職種別組合が発達しました。たとえばドイツでは、馬具職人なら馬具職人だけの組合があり、その組合が馬具職人のための教育訓練コースを設け、その組合の親方が技能資格を授けることで初めて職人として働けることになっていました。イギリスの会計士や薬剤師なども同様でした。
こうした慣行がもとになり、近代化とともに、学校で近代的な職業訓練を経て資格や学位が授けられるようになりました。そして労働者は職種別の組合や専門職団体に組織され、賃金交渉も業種別・職種別で行いました。アメリカは、欧州ほど職種別組合が強くありませんでしたが、やはり労働組合や専門職団体の活動などを通じて、似たような慣行ができました。
こうした社会では、業務遂行に必要な職業訓練や職業経験、資格や専門学位などを有する人ほど高い賃金で、資格や学位を持たない人は安い賃金で雇われます。その代わりに、人種や性別、年令などでは賃金を差別しない「同一労働同一賃金」が原則になりました。
こういう慣行だと、専門的な能力をもつ人材は、自分の技能を生かせる仕事を求めて、別の企業へと移動していくことが一般的です。そのため、同じ内容の仕事であれば、企業規模による賃金差はつきにくい。
ところが日本の大企業正社員の場合は、企業に採用されるにあたって、専門的な訓練を受けているかどうかはほとんど重視されません。企業は学位ではなく学歴、つまり「どのレベルの大学入試を突破したか」を、その人の潜在能力の指標と見て採用する。入社後も、その人の専門性や職業経験とは関係なく、年齢と社歴に応じて賃金が上がっていきます。同じ仕事をしていても、所属する企業の規模が違えば賃金に著しい差が生じることもあります。