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元号法案についての参考人意見④ 

元号法案についての参考人意見④ 国民の統合の象徴としての元号

参議院内閣委員会  
昭和54年05月25日

○参考人(小川泰君) 座ったままで失礼いたします。時間もありませんので、いままでお三方のお話を伺いまして重複するような点はできるだけ割愛しながら、私の意見を述べさせていただきます。
 まず第一には、この元号の始まりという点についてさきに触れられておりますから割愛いたしますが、何と言っても千三百年以上続いておるという事実は私は認めていかなきゃならぬというふうに思いますし、現実に明治の法制下で制定されたというお話もございました。これも事実だと思いますし、現在の日本国の憲法という規定のもとでは確かにいろんな法的根拠あるなしの論議があるかもしれませんが、現段階では法的な根拠がないというふうに認識するのが素直な見方ではなかろうかと、これが第一の私の考えであります。
 二番目には、こういう元号というふうな問題はできるだけ事実は事実として真摯な審議を尽くして法制化すべきだと、こういう前提に立たざるを得ないんではないかなというふうに思っております。
 と申しますのは、いろんな経過はあったとは申せ、かつて日本が終戦を迎えて占領軍というGHQのもとで私ども自身も大分苦労をしましたが、そういう中でこの元号というものが今日まで放置されておった。しかも、サンフランシスコ条約で日本が独立を見たというこの経過にちなんで見まするならば、さきにも言われましたとおり、私は日本が本当に独立したその時期を契機にしてこの種のものは明確に法制化しておくべきではなかったか。そういう点の私はいままで手抜かりがあったのではなかろうかと、こういう感じを持ちます。これが二番目です。
 三番目には、この元号というものが持つ意義と申しますか、意味合いというものを私は素直に見てみたいと思うんです。
 その一つは、日本は現在独立国である、一つの国家、こういう立場に立ってみますると、国民の統合の象徴として元号というものは明確に位置づけなければならない、こういう前提に立ちます。多くの説明は必要ないかもしれませんが、一つの民族が国家を形成し、他の民族あるいは何人にも侵されないでその民族が独立して存続しようとするこの厳然たる歴史を私は大事にしていくのが本来の姿ではないか、こういう考え方に立ちます。したがいまして、独立と統合の象徴として元号というものは位置づけられなければならない、こんなふうに考えるわけであります。
 その二番目は、歴史と伝統というやつは、大変日本語抽象化されておるんでありますけれども、これは私は一つの民族として見るならば、大変大事に尊重しなければならない遺産だろうというふうに私は思います。したがいまして、よき伝統はこれを守り育てる、こういう考え方を大事にしていかなきゃならぬ。そういう結果、いろいろな解釈あるいは見方があるかもしらぬが、千三百三十年以上続いておるということは、私はその間日本の民族が英知を集めて日本人自身のものとして守り育ててきた、こういう事実ではないのかなというふうに思いますので、むしろこの種のものは何物にもかえがたい文化であるということを誇りを持って私は確認すべきではないか。したがって、このようないい歴史と伝統というものは守り育てていかなければならないというふうに考えます。もとより歴史とか文化というものの中でこんなに長い間育ってきたというこれ自体は、恐らくだめなものなら消滅しておったでしょう。その時代を担う多くの国民がよしとして合意があったればこそ今日まで続いてきた、こう素直に見るのが私は至当ではなかろうかと思います。いわゆる自然の流れは真実そのものを物語る、いかに後から理屈をつけようと、それは私はためにするための議論にすぎない、こういうふうに考える一人でございます。
 そう考えてまいりますると、元号というようなものは、それは日本人が日本人としてつくり上げた無形文化財以上の社会的文化だというふうな誇りを持ってこれを確認すべきだというふうに思います。
 次に三番目として、現在この元号というものが生活の中に溶け込んでおる、これも事実だと思いますし、慣習の中に生きて歩み続けておるというのも、これも事実だと思います。こういう事実はもとより法の大前提に立って――ただこれは日本の法律はいま慣習法やら大陸法やらごちゃまぜの法律の体系になってますから、大体どっちの方角を向いているのかというのはようわからぬみたいな傾向がありますけれども、さはさりながら私は人々の必要とした慣習の中から秩序として法律は生まれる。この鉄則に徹して考えてみまするならば元号はあってしかるべきと、直ちに法制化していないのが間違いではなかったのかな、こういう感じを持つ一人でございます。
 その次の四番目として、よくこの西暦といいますか、キリスト暦といいまするのか、まあ紀年法といいますか、年代表記を使った方がいいんではないかという御意見も承ります。しかし、私は幾つかの歴史の長い国家を世界じゅう見てまいりますると、それ相応にそれぞれの国の元号というものはいまその民族の合意として生々と生きておるという事実も見逃せない事実だと思うんです。ただこれは、いま隣に先生がおって恐縮なんだけれども、ぼくなんかは戦争被害者の一人なんですが、果たして西暦キリスト暦というものを私なりに勉強してみますると、あれはたしか五百年ぐらいたってから逆に戻りまして、実際問題としていかがなものかなというふうな内容を持っておりますけれども、これは一つの宗教暦としてその意味をなすものだとして尊重をしたい、このように思いますが、逆に昨今の植民地政策、こういう全世界が舞い戻ってはならない歴史の足跡を振り返ってみますると、この西暦というものが、純枠な発生にもかかわらず、時の為政者が植民地政策の一つとして西暦を使わしめておったような歴史的な事実を考えますると、余り芳しいものではない、こういう感じすらもいたします。したがって余り賛成はできない。これが四番目の私の考え方であります。
 さて、最後に天皇制というものをしばしば取り上げられまして、憲法第一条、これを中心にして元号とのかかわり合いというものに対して幾つかの御意見が出ておるようでありますが、私は、憲法第一条というものを、そのまま、余り頭もよくありませんが、じいっと吟味してみますると、まさに天皇というものは国民統合の象徴であって、主権は日本国民に存在するのだ、こうなっておりますから、この天皇の地位というものと主権者たる国民の自然な親しみと敬意を結ぶきずなとして、私はそのシンボルとして、元号の存在は大きな意味を持つと、仮にこれ否定なさるならば、むしろ憲法第一条を変える方が先だと、いまの憲法を擁護する立場から素直に解釈すれば、そのようにとって決して不思議ではなかろう、こういう感じでございます。
 最後に一、二、一つ何々という方式で時間がありませんから申し上げますが、その一つは、いわゆる西暦合理論というものが一面にあります。確かにその一理は私も認めて一向に差し支えないと思いますので、この法案に出ておりまするような一つの整理の上で併用されても何ら差し支えない、このように申し添えたいと思います。
 その二番目は、何か日本が西暦を使わないと世界の大勢におくれるかのごとき御意見も伺いますが、私はこれはむしろそうお思いいただいている皆さんの方が世界の大勢におくれるのではないか、こういう逆説に立つ一人であります。むしろ世界の流れに日本がどう貢献し、そして位置づけられるかという問題と元号という問題は、次元が全然違うと、こういう明確な認識を持つのが至当ではなかろうか、こう思いまして、むしろ民族の誇りというものを高々と掲げることこそ尊敬のもとである、このように考えますので、決して大勢におくれるものではない、こういうことを申し添えたいと思います。
 最後に、よく天皇制復活論とか右傾化論というものをこの元号論に結びつけてお話しされる方々がいらっしゃいますが、どうもこの種の問題、まああらゆる問題そうですが、警戒といいますか、いろいろな角度から御検討いただくということは大変私はすばらしいことであり結構なことだと思いまするけれども、必要以上の思い過ぎはむしろ私は弊害がある、素直にこれを見るべきであって、その結果はむしろみずからを卑下し、小児病的な発想に陥る可能性なしとしない、このように考えるものであります。したがって現在日本は、りっぱに平和憲法を持って、憲法九条で戦争を放棄し、非核三原則で人類悪魔の兵器は、つくらない、持たない、持ち込まないというりっぱな世界に冠たる独立民族として今日の盛世を見ておる、そういう立場で見まするならば、私はこの種の問題は、自信を持って対処していくというくらいのりっぱな審議を国会の先生方にお願い申し上げたいということを申し添えて、私の意見にかえます。
 以上であります。



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