元号法案についての参考人意見②
- 2019/04/30
- 07:18
元号法案についての参考人意見② 紀年法がなければ国の歴史を記録することができない
参議院内閣委員会
昭和54年05月25日
○参考人(宇野精一君) 申し上げたいことはたくさんございますけれども、元号法制化という当面の問題のために意見をお求めになっておると思いますので、その問題にしぼって意見を申し上げたいと思います。
私は三点ばかり申し上げたいのですけれども、第一は、御承知のとおり行政官布告というものが明治元年に出ておりまして、それが有効であるとかないとかいろいろ議論があるようでございます。私はこちらの参議院の現行法令集というものの中に行政官布告というものが掲載されているというふうに伺っております。それならば、現行法令でありますので、行政官布告は現在執行されておるというふうに考えるべきではないかと私などは思うのです。私は法律の専門家じゃございませんので、文化の人間でございますから法律的なことはわかりませんけれども、私などの立場から申しますとそんなふうに思いますけれども、しかし、それはたびたびの国会における御審議で法制局長官からそれは無効であるという趣旨の御答弁があっているようでありますので、それをいまさら私がその有効説を主張しようとは思いません。
ただちょっと、皆様御承知のことだろうとは思いますけれども、ちょっと振り返って戦争直後のことに話を戻しますけれども、昭和二十一年に現在の皇室典範の審議があったときに、憲法担当の金森徳次郎国務大臣の御答弁では、行政官布告が有効であるという旨の御答弁が繰り返し行われ、さらにそのときに、しかし今後は法律をもって定める必要があるだろうという趣旨の御答弁があったことが記録されております。それに伴ってだろうと思いますけれども、当時の法制局の第一部長であられました井手成三氏が、昭和二十一年十一月の十五日に、その前に閣議決定された――閣議決定と言っていいんでしょうか、内閣でまとめられたもとの元号法案というものを持ってGHQに出られ、打診に行かれたんだろうと思いますが、そのときにピークという担当官がその法案については異議がないと。そのときに言葉を添えて、むしろ西暦を強制するようなことは信教の自由に反することになるからそれはよろしくないだろうというような助言まであったそうであります。ただし、その後間もなく、正確な日取りは私存じませんけれども、間もなく当時法制局次長であられました佐藤達夫氏のところに、あるいは達夫氏が出られましたときに、ケーディスという大佐が、どうも元号法案は困る、あれは認めるわけにいかない、まあ日本が独立した後に決めたらいいだろう、こういう回答をしたということであります。そういうことはたびたび問題になっているようでありますけれども、いわゆる新憲法とか占領軍の意向とかいうものが元号というものを認めないとかなんとかいう議論がよくあるようでありますけれども、それはいまのいきさつをもってみても決して連合軍は元号そのものを否定しているのではないということが明らかでありますし、さらに新憲法の公布の日付はちゃんと昭和二十一年十一月三日となっておるのでありまして、これは疑いのないところであると私は思います。
そういうことがありますんで、本来ならば独立直後、昭和二十八年でも九年でも私は元号法案を直ちにそこで通すべきであったと思うのであります。それが、どういう事情があるか存じませんけれども、そのまま延びて今日に及んでおる。で、行政官布告というものが現在執行しておるとするならば、それの補完措置としてこれを元号法案というものによって法制化するのが私は当然のことであるというふうに思うのであります。それが第一点。
それから第二点として、それではなぜその元号というものが必要なのかということでありますが、これは私は、およそ個人にしてもそうでありますけれども、特に国として公の紀年法というものがどうしても必要である。これがなければ国の歴史というものを記録することができない。で、もしそれを統一しないでおきますと非常な混乱が起こるわけであります。これは予測のことでありますから、なってみなければわかりませんけれども、たとえば現在の昭和という年号、これは事実たる慣習にすぎないというふうなことだそうでございますけれども、このままもし法制化しないでおきますとどういうことが起こるか。そういう余り予言めいたことを申すのははなはだ私としては不謹慎だと思いますけれども、まあ率直な私の考えを申しますと、そのまま昭和を百年でも二百年でも使う人がいるかもしれない。もちろん西暦もいるでしょう。しかし、神武紀元を使う人もいるかもしれない。それから、先般明治百年ということで大分国民的に大きな反響を呼びましたけれども、いやおれは明治から使うのだと言って明治何年というのを使う人がいるかもしれない。それから仏教に非常に熱心な人は仏教暦を使うかもしれないし、日本人には非常に少ないけれどももしイスラム教の人がいればイスラム暦を使うでありましょう。そのようなことになりましたならば日本の国家としての紀年法というものがめちゃくちゃになってしまって、とても正確な事実の記載ということが不可能になります。したがって、私は紀年法としてどうしても統一したものが必要であると思うのであります。その場合にたとえば古い話でありますけれども、大宝令では、御承知のとおり初めて年号というものがつくられたときでありますけれども、そこでは、公文書には年号を記載しなければならない旨の規定がございます。これは千何百年も昔の話でありますけれども、私は国家というものはそういう統一された紀年法がなければならないと思うのであります。それで、もし西暦を使いますならば、先ほどのドクターピークの助言にもありますように、これは明らかに信教の自由の憲法違反になるというふうに私は思うのでございます。ただし、その強制力と申しましても個人としては全く自由であるべきで、それは私もさように考えます。自分のことを記す場合、あるいは時と場合に応じて西暦ももちろんお使いになるべきでありましょうし、その他の紀年法をお使いになることも全く御自由であると思いますけれども、公文書だけは私は元号を使うべきであるというふうに思うのであります。
その元号の問題なんですけれども、大体王様というものがおられる国では、単に西暦いわゆるキリスト紀元だけを使う場合もないわけではないようでありますけれども、公的のもの、最も公式の場合は大体王様の統治何年というふうなことをあわせて記す習慣が世界的にございます。これは外務省でお調べになった書類がございますので、今日私ちょっと忘れて持ってまいりませんでしたので、具体例を申すことはできませんけれども、先生方のお手元には多分それが参っておると思いますので、それをごらんいただきたいと思います。王様の名前、たとえばイギリスでありますとエリザベス二世何年、あるいは統治何年というような表記をすると思います。しかし日本では、その天皇のお名前を申すことは避けるというのが千年以来の伝統でございます。これは多分私は支那から来た風習だと思いますので、日本も昔はそうでなかったんじゃないかと思うのですけれども、とにかくもとは外のものであっても、千年以上も伝わっているものはもうわれわれのものと考えてもよろしいのであって、そういう習慣があります以上はやはりお名前にかわる何らかの表現法が欲しいというふうに思うわけであります。これが第二点。
第三点は、いわゆる国民主権というものと元号というものとはそぐわないというような御意見があるようでありますけれども、これも皆さんが繰り返しおっしゃるように、日本国憲法には、日本国及び国民統合の象徴であると、第二条には皇位は世襲であるという旨の規定がございます。でありますから、御代がわりのときに新たな元号を制定されるということは、これまた憲法の趣旨にもきわめてかなったことであるというふうに思うのであります。元号というもの自体も私は国民統合の象徴であられる天皇の、何と言うのでしょうか、われわれが唱える場合に非常にいいと、直接お名前を申し上げるわけにいかないから、いまの陛下の何年ということのかわりに昭和何年というふうに言うわけでありまして、これが私は最も適当な憲法にもかなったものであると思うのであります。
なおつけ加えて申しますが、元号制度そのものは皆様御承知のように、これは当然支那から伝わったものであることは申すまでもないのでありますけれども、したがってこれは、漢民族の文化の特色と申すべきだと思います。その漢文化の影響しておる国々においてはしたがって皆元号を使っておったのであります。それがいろいろな事情で王様というものがなくなったりなんかしますと、元号というものが自然消滅するわけでありますけれども、王様がいれば使うべきであり、使っておった。よく世界じゅうで元号なんというのは日本だけだということを皆さんおっしゃるんですけれども、いわゆる漢文化のもとにありますところの国家、中華人民共和国を初めとして中華民国あるいは現在の大韓民国あるいは朝鮮――どうもちょっと正式な名前私よく覚えないのですが、要するに普通に北朝鮮と申しておる国ですね、ベトナムなんかもそうですが、そういう国々においては王様というものがなくなったために元号というものが行われないだけでありまして、日本はやはりお名前は何と申し上げようと天皇様がいらっしゃるので元号というのを建てるのが当然である。しかも特に注意すべきは、よその、日本以外の国々においてはおおむね支那の元号をそのまま使わされておったのが歴史的な事実であります。ところが日本は一番最初から日本独自の元号を建てておるのであります。これは日本独立の象徴とでも言うのでしょうか、であって、そこに私は元号というものの非常に重要な意味があるというふうに考えるのでございます。
まだほかに申し上げたいことがたくさんございますけれども、時間が大体参りましたようですからこれで終わらせていただきます。