元号法案についての参考人意見①
- 2019/04/30
- 05:56
元号法案についての参考人意見① 元号改元は宗教弾圧の歴史
参議院内閣委員会
昭和54年05月25日
○参考人(木村知己君) 私は、政府が今国会に提出しております元号法案には反対の意見を持っておるものでございますが、それとともにキリスト教会には過去の経験からこの元号法案にむしろ危惧の念を持っていることを少し申し述べたいと思うわけでございます。
第一に、私どもは基本的人権である信仰の自由にかかわるものといたしまして、いままで靖国神社国営化法案の反対運動を十年余にわたっていたしてまいりました。ところが靖国神社法案が廃案になりましてからいわゆる紀元節復活、天皇の靖国神社公式参拝の要求、それから君が代の国歌化、それから教育勅語、軍人勅諭問題など次々とある意味では同一人物、同一団体の方々によって天皇主権復活を主張せられながら、この元号法案の提唱、実現推進運動が行われ始めているということに非常に重要な問題を感ずるわけでございます。それはこの法案の趣旨でございます皇位の継承があった場合改元する。すなわち一世一元の元号が天皇主権の復活とともにかつての国家神道、今日の神社神道と深いかかわりがあることを私どもは見落とすことができないわけでございます。
実は政府が提案理由の一つとして御説明になっておられます地方自治体の請願決議、いわゆる都道府県議会で四十六の請願が決議されているからということを提案理由の一つにしておられます。しかし聞くところによりますと、この四十六という数字は余り正確ではなくて、何か総理府のPR用のようでございますけれども、実数は少し違ったとしましても、この要請をしておられる方々の内容でございますが、その一例といたしまして、実は北海道議会の場合の請願者の北海道元号法制化推進連絡会議というものは、実は札幌市宮ケ丘四七四、北海道神社社務所内に置かれているのでございます。このことが明記せられておりますので、そのほか他府県にもこれと同様のものがあるようでございます。言いかえるならば、この元号法案の請願運動、推進運動というものがいわゆる神社関係者とは全く無縁であるということはこれは言えないことではないか、こう思うわけでございます。と申しますのは、いわゆる天皇を最高の祭主とするかつての国家神道を母体とする神社神道が皇位の継承とともに一世一元の改元を切実に願うのはこれは当然のことでございまして、それは宗教上のことがあるからでございます。その点本来元号というのは単なる国民の日常性のことではなくて、天皇を祭主とする神社神道にとっては皇位継承による改元は神社神道の宗教祭祀、これは祭りでございますが、祭祀、教義にかかわっているのでございます。これは神社関係の大変大著でございます、田中初夫という方が「践祚大嘗祭」という本をあらわしていらっしゃいます。これに書いてありますところが大変重要なので以下引用させていただきます。これは繰り返して申しますが、田中初夫著の「践祚大嘗祭」という本でございます。そこに「天皇が即位したとき天神地祇を祭り、即位、践祚、大嘗の三行事が行はれなければならない。この大嘗祭は古くは「践祚大嘗祭」といわれ、天皇即位のはじめにおいて第一におかれるべく、そして不可欠であるところの祭祀、儀式である。践祚大嘗祭こそわが国上代における天皇即位の大礼の本体を意味したものであって、わが国の即位に関する諸式、諸礼祭においてこれを欠くか、あるいは皇室内の単なる私事として、国民の前からこれを去らすことはわが国の伝統と精神に即しないことである」と、実はこのように一世一元の元号が皇位の継承とともに改元されるのはその背後に国家神道の祭祀があり、国事としてなされるべきであるとする践祚大嘗祭の神道祭祀と一体であるということでございます。
実はこの大嘗祭というのは、私ども余り日常では聞きなれない言葉なんでございますが、これは即位した天皇が天皇家の祭神である天照大神を初め天神地祇を祭って天皇が神饌、これはお供物ですが、天皇が神饌を供進して神々とともに食して皇祖神及び神武天皇以来歴代の皇霊、これは天皇の霊です、皇霊と一体化してその帰結として天皇自身が神となり、神格を有する万世一系の天皇になるということが、これが国家神道、そして今日の神社神道に継承されているいわば神道教義でございます。旧憲法で天皇は神聖にして侵すべからずとして現人神と言われましたのは、実はこの大嘗祭によって神格化せられたところにこれがあるわけでございます。
実は大嘗祭をもって神格化された天皇はいわゆる法案にあります皇位の継承とともに政治的、宗教的カリスマを付されて一世一元の元号により民衆を政治的、宗教的に統治するというのが、これが本来の元号の精神でございました。こういたしますと、本来一世一元の元号というものは、私どもキリスト教徒にとりましては元号は単なる紀年とか年号ではなくて、皇位継承とともに宗教的統治をもって忠誠を要求されるものであるのが元号というものの性格でございました。元号により神道祭祀による時間的、空間的支配によりかつて多くの宗教団体が宗教弾圧を受けたことは、その例を挙げますれば大変な時間をかけてお話ししなければならないと思います。
実はこの皇位継承による一世一元の元号改元は宗教弾圧の歴史であったと言ってよろしかろうと思います。その事実は、最近岩波新書から「宗教弾圧を語る」という本が出ておりまして、その体験者たちが読むにたえないほどの悲惨な体験をそこで事実として証言いたしております。私どもは政治の領域に法律として何らか宗教がかかわることは、かつて国家神道のもとに宗教団体法により激しく弾圧せられたところの宗教者たちにとっては耐えられないことでございます。ただ、国家の保護を受け、権力に便乗した当時の国家の保護を受けた宗教は別でございますけれども、自分たちの信迎の信条を持って生きようとしたところの宗教者たちが、こうした一世一元の元号、皇位の継承というところから来る宗教的支配の中でどれだけ苦しんだかということをいやと言うほど危険性を身を持って知らされておりますゆえに、元号法案の持つ危険性を私どもはここに見るわけでございます。
第二点といたしまして、私はいただきましたこの政府の元号法案提出理由というものを篤と読んでみました。しかし、どんなに読んでみても実は私にはよく理由がわからないのでございます。書いてありますことの中に、日常生活において長年使用され、広く定着しているからということが提案理由のようでございますが、もしも日常生活に定着し、長年使用せられているならいまさら法律で強制したり拘束したりする必要はないんじゃないだろうか、もしも長年定着しているものを法律でもって強制、拘束するというのならば、これは法律はまた大変なことになるんじゃないかというふうに私たちは考えさせられるのでございます。しかしその点私は、政府も提案理由の一つとして説明しておられますように、元号法制化促進を請願していらっしゃる方々が、それぞれの地方議会に出しておられます請願理由の方がはるかによくわかるように思います。ただ、この請願は、一九七七年以降各地で、各都道府県の議会に同一趣旨の請願がまるで各地にどこかから配給されたように地方議会に請願が出されているのでございますが、先ほど述べましたようにこれらが神社神道関係者とその関係の深い団体より推進されていることはよく知られているところです。
その請願の文書の趣旨というものは、大体読んでみますと以下の三点になっているようでございます。第一は、日本の伝統、文化を継承するためということです。第二は日常生活に便利であり歴史をひもとくのに重要なかぎになるということです。第三番目が、日本が文化国家であるため、以上三点がこの請願者たちの方々の促進の趣旨でございます。
この主張は、多くの元号法案の支持者の方々の発言であり、また参考にいただきました衆議院内閣委員会参考人意見陳述の支持者の方々の意見もまた同様であったようでございます。私も日本国民といたしまして日本の文化、伝統を大切にしたいと考えております。ところで、私どもが本当に大切にしなければならない文化、伝統というものは、その文化、伝統自身の持つ価値によって継承されてこそ価値があるものと私たちは考えております。それは私どもの宗教者にとっても同じことでございまして、宗教の真理は真理自体の自証性によって価値づけられるべきであって、法律によって宗教とか文化とか伝統というものが保護されたり強制されたり拘束されたりして継承するとするのならば、それはもはや文化とか伝統ではなくて、むしろ伝統、文化を破壊することになると思うわけでございます。精神的文化あるいは伝統というものを法律の保護、強制によって維持、継承しようとしていることは、文化国家とは言えませんし、またそのような文化国家が世界のどこにあるのか、私は恐らくないのではないかとこう思うわけです。
そこで、法律の強制、拘束をもって維持、継承される文化とか伝統は、輝く文化、伝統とは言えず、むしろこれは歴史に汚点を残すところの奴隷の文化だと言うより仕方がないんじゃないかと思います。また、日常性の便利さ、歴史のひもときならなおさらのこと、しばしば変わる元号は不便、不合理この上もないと言えると思います。まして、民衆の生活とは全くかかわりのない一人の人の生死によって年号がやたらに変えられるとすれば、これまた不便、不合理この上もないと言えると思うのでございます。歴史が一人の天皇によってつくられる時代は終わったのです。かつて文部省が国定教科書として客観的事実としての歴史を否定して、国史なる名前のもとに天皇のための歴史を強要するようなことが再び日本であってはならないと私は思うからでございます。
最後に、第三番目といたしまして、この元号法案を政府が提出したことによって日本の国がアジアの近隣諸国の民衆からどのように見られているかということを知らなければなりません。私どもキリスト教会はアジアの地域のキリスト教会との間にアジアキリスト教協議会、これはクリスチャン・カウンセル・オブ・エーシアと言いますが、通称CCAと申しておりますが、こういう組織を持っております。これらの国々のキリスト教会、キリスト教団体がこの元号法案の成り行き、審議を厳しく見詰めております、と申しますのは、かつて日本が朝鮮半島、台湾を植民地として支配いたしましたとき、またその後大東亜聖戦の美名のもとに武力でアジア地域を侵略しましたとき、この国の人々、また民衆はこのことを決して忘れておりません。自分たちの愛する国土に自分たちとは何ら関係もない天皇を祭主とするところの国家神道の神社を次々に建ててその参拝を強要したという事実をこれらの人は決して忘れておりません。民族の誇りを無視して皇民化政策の名前のもとに彼らに何の関係もない元号を強要した事実を彼らはいやと言うほど知っておるのでございます。アジアの地域で使わせました教科書で、元号を教えたものの教科書を私はかつてシンガポールに参りましたときに教育関係者より見せられて、いまあなたの国では皇紀何年ですかと質問されて私は大変困ったことがございます。それは明らかにアジアの人々の私たちに対する皮肉を込めたところの怒りであったと、私たちはこう思っております。
朝鮮半島のクリスチャンはこの皇民化政策の一環として元号、皇紀を強要せられて、民族の誇りと信仰の自由をもって拒否したために投獄され死に至った人々があります。またその家族、その屈辱を体験した人々がいまその国の指導者、知識人としていまなお多くおられます。これらの人々はA級戦犯の靖国神社合祀、そして大平首相の参拝とともに元号法案を提出した政府の態度を厳しく見詰め、私どもに警告をいたしております。
私どもキリスト教徒は、戦時下宗教弾圧の被害者であると同時に、自分たちと何ら関係のない元号を強制された侵略された人々の被害に対し責任を果たさなければならないと考えておりますし、私どもはかつて気がつかないうちに彼らの加害者でもあったわけでございます。そのため私どもキリスト教会は、一九六七年に戦争責任の告白というものをもってアジアの人々にその責任を表明いたしております。そのことから言っても、私どもはこの元号法案を反対せざるを得ないわけでございます。
日本が真に自由、民主の国として国際社会に貢献し、かつて犯した戦争責任を償おうとするのならば、この元号法案によって近隣アジア諸国の民衆にあの悪夢の日を思い起こさせないように日本政府が元号法案を撤回されることを、私は希望いたします。
以上です。