ばあちゃんな。おれのこと、覚えてないんだよ。
「ばあちゃんな、俺の事、覚えてないんだよ」
高校3年。私が母親に言ったセリフだった。
私のばあちゃんは痴呆症がすすみ、色々と問題がおきた。
オヤジが死んで、大体1年くらいたった頃だった。
前書き
最近、ネタがあるのにブログがかけない病みたいな感じに陥っている。
そんなわけで、気ままに昔話でも1つ届けたい。ツイッターじゃ決して伝える事が出来ないこともきっとある。
春。ゆきどけ
ばあちゃんが死んだのは私が高校を卒業し、専門学校の入学式の前日だった。
私はそれによって入学式を出ていない。
元々ばあちゃんはずっと遠くで1人でくらいしていた。
色々畑仕事とかしたりして、バイクも好きで、カブに一緒に乗せてもらった事もあった。
大腸ガンをわずらったが、若干人とは違うところから便がでるようになった事以外、完全にガンも克服するほど強い人だった。
しかし、年とともに少しずつ痴呆が進んでいった。
そんな事はもちろんしらなかったわけで、あるとき近所に、といっても歩いて20秒の目と鼻の先の小さな家にばあちゃんが引っ越してきた。
うちの母親がお世話をするということになったんだろうと今になって思う。
引っ越してきて1年。
私は高校3年になった。
真夜中に電話がなる。
ばあちゃんからだった。
「外に沢山の人がいて部屋を覗く!」
こうした電話がとにかく多かった。親父が死んだのが高校1年だったというのもあり、母親もこれには相当まっている様子だった。
恐らくだが、痴呆によって大変になるのは、本人よりも周りなんだろうと、その時感じていた。
おい、あれかってこい
痴呆が進行していくと、記憶が飛び飛びになり、また、人の顔のと思い出の記憶にズレが起こる。
例えば母親の顔を見ても、母親として認識している時もあれば、ちょっと時間を空けると、別の人間の名前を呼んだり、まるでその別人に対して接客するような振る舞いを行う。
私の事も、たまに別の人と間違って接する事があった。
今になってみれば恥ずかしい感情だが、その時は、母親もつかれきっていて「早く死ねばいいのに」と思ってしまっていた。
そのうち徘徊なども始まり、いよいよ苦しい介護が必要になってきた。もちろん母親も仕事をしなければならないので、私も介護を手伝っていた。
高校3年もそろそろ終わりが近づいてきた時、ばあちゃんが、私の事をまた別人だと思ったのかわからないけど、私に買い物を頼んできた。
「おい、黒いカバンと、えんぴつとけしごむかってこい。カバンはなるべく若者が好きそうなのを買ってくるんだぞ」
なんのこっちゃ。
昔はそんな口の聞き方を私にするようなおばあちゃんではなかったので、多分誰かと勘違いしたのだろう。
一応、母親に相談し、買ってきた。
誰かに送るのかなとか、色々思ったけど、よくわからなかった。
「ばあちゃん、買って来たぞ」と言ってカバンを渡した。
するとばあちゃんは、半分泣きながら私に向かってこういった。
「なぁ聞いてくれよ。孫の△△が、高校卒業するんだとよ。卒業式まで生きれるかわからないからコレ、わたしてやりてんだ。でもな、もうどうやって渡したらいいかわからないんだ。どこに住んでるんだっけなぁ」
△△、とは、私の下の名前だ。
おいコノヤロウ。今思い出してもやはり涙が溢れてくる強烈な一言だった。
「ばあちゃんオレだよわからないの?」
何回か泣きながら言ったけど、結局私の事はわからなかったみたいだった。
親父のこともあって、ありがとう、ごめんねって何回も言った記憶がある。
色々あったけど、結局ばあちゃんはその数日後に入院し、亡くなった。
ずっとずっと、小学校の頃、カブに乗せてもらって、大好きだったおばあちゃん。
何回かお盆休みや、夏休みの時に遊びに行って、色んな遊びを教えてくれた人だった。
でも、痴呆って結構壮絶なもんでね、本当に嫌いになった事もあったし、ヒドイ感情が芽生える事も多かった。
私はそうした憎しみだけをもって、最後を送ることにならずにすんだ事に感謝している。
最後にもらった黒いカバンと、鉛筆とけしごむは、専門学校に行く事が決まった祝いだったのか、それとも単に痴呆によって選んだものだったのかは、今はわかりませんが、本当にありがとうと最後に伝える事が出来た。
痴呆のばあちゃんも、ちゃんと私の事を思っていてくれたように、人生色々あるけど、誰かはきっとあなたの事をちゃんとみてるんじゃないかなって、思います。
そして、こんなくだらない話に最後まで付き合っていただき、ありがとうございました。
これからも頑張りたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。
それでは、また。