武田信廉
たけだのぶかど
甲斐武田氏第18代当主・武田信虎の六男。正室・大井の方所生の子としては三男。出家後に号した「逍遙軒信綱(しょうようけんしんこう)」の名でも知られる。同母兄に武田晴信(武田信玄)や武田信繁がいる。兄弟中でも信玄とは特に骨相が似ていた事から、後の西上作戦での撤退時や信玄の影武者を務めたことが『甲陽軍鑑』に記されている。
信玄没後に北条家臣の板部岡江雪斎が使者として甲斐に赴いた時、信玄として応対し江雪斎が騙され信玄の生存を信じたという逸話がある。
所謂「武田二十四将」の一人としても数えられている。
武将や統治者としてよりは文化人として名高く特に画家としての才に優れていた事が伝わっている。後述の信虎帰国時に描いたとされる「武田信虎像」(甲府大泉寺所蔵)、同じく甲府の長禅寺所蔵の「武田信虎夫人像」「渡唐天神像」などはその代表的な作品として挙げられる。
信廉の名が史料上に現れるのは天文17年(1548年)、『高白斎記』における諏訪千野氏への知行増加を約束したという記述が最初であり、この当時は千野氏を始めとする諏訪衆の取次役を務めていたものと考えられている。
その後、永禄4年(1561年)の第四次川中島合戦で次兄・信繁が戦死すると、その後を受けて親族衆筆頭となり、合戦時における本陣の防衛などに度々当たった。元亀元年(1570年)には高遠城主に任じられた。信玄没後、かつて信玄が追放した父・信虎の身柄を引き取り高遠城に住まわせてもいる。
信玄の死後も、飯田長姫城や伊那大島城など信濃の重要拠点の城代を務め、一門の重鎮として軍事・統治の両面で、信玄の跡を継いだ武田勝頼を支えた。
天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいては山県昌景の部隊に続いて「二番」に攻撃を仕掛けた事が『信長公記』に記録されている。天正10年(1582年)の甲州崩れで武田氏が滅亡した後、織田軍の残党狩りによって捕らえられ、織田信忠の命令で3月24日に森長可の配下により甲斐府中立石で処刑された。享年51。
長男の平太郎は天正4年(1576年)に先立ち、次男の麟岳は僧籍にあったが甲州崩れの際に勝頼やその嫡子の武田信勝と運命を共にしている。
信長の野望シリーズ
戦国群雄伝から登場。政治(内政)こそ並だがその他はパッとせず、特に戦場での働きは期待出来ない。教養のパラメーターがある時は外交要員として使える。