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朝潮太郎

あさしおたろう

朝潮太郎(朝汐太郎)は大相撲の力士の四股名。メイン画像は四代目。
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概要編集

高砂部屋の由緒ある四股名である。四代目の元年寄・高砂親方(7代目)が健在。

当初は「朝汐」だったが、二代目が現役中に「汐」を「潮」に書き換え。

二代目以降は「朝汐」⇒「朝潮」と襲名している。


因みに全員、番付が大関以上(3代のみ横綱)であるのも特筆される。


朝汐太郎 (初代)編集

後に年寄佐ノ山。「朝潮(朝汐)太郎」と名乗った力士の中では、唯一「高砂」の年寄を継承していない。


明治時代の大関。(元治元年11月28日(1864年12月26日)~大正9年(1920年)8月26日。)

本名・杉本太郎吉(すぎもと たろきち)→増原太郎吉(ますはら たろきち)、伊予国宇和郡(現在の愛媛県八幡浜市)出身。

7歳の頃から酒の一斗樽(約18ℓ)を楽に持ち上げる程の怪力を持っていたという。また丁稚奉公の頃から大の相撲好きで、暇さえあれば奉公先の屋敷の大黒柱にぶちかましの稽古をやったり、素人相撲が開かれると仕事そっちのけで参加する等をして奉公先の主人から度々叱責を受けたという。

17歳の時に大坂相撲の押尾川部屋の朝嵐に誘われて部屋に入門。本名の「増原」で土俵に上がっていたが、19歳の時に「朝汐」に四股名を改名。ただ本人は大坂相撲のレベルでは満足せず、25歳の時に上京。東京相撲(現在の日本相撲協会の流れを汲む相撲の会所である)の高砂改正組(現在の高砂部屋)の初代高砂浦五郎に誘われ、高砂部屋に改めて入門する。

東京相撲では1890年1月場所に十両格付出で初土俵を踏んだ。この時、師匠の高砂から「朝汐なんて素人臭い名前だから変えろ」と改名を促され、周囲からも「もっと良い四股名がある筈だよ」と横槍を入れられたが、本人は全く気にせず、「強うなりゃ、ええ名になります」と言って最後まで「朝汐太郎」で通した。その宣言通り明治31年5月場所に大関に昇進するとから明治36年1月場所まで都合5年10場所務める程の活躍を見せ、更には優勝制度が無かった時代だが、1894年5月場所(8勝1敗)、1898年5月場所(7勝1敗1分)で優勝に相当する成績を残している。当時は(初代)梅ヶ谷藤太郎常陸山谷右衛門の全盛期(所謂『梅常陸時代』)であっただけに、この成績は特筆に値する。また、横綱となれなかった逸話として、相撲を好んだ明治天皇が高砂部屋を訪れた際に朝汐と取り組み、素人には負けられないと朝汐が容赦無く天皇を投げ飛ばしてしまったというものも伝わっている。

長年の功労が認められ、大関陥落後ではあるが明治37年12月には吉田司家から1日限りの横綱免許を授与されて土俵入りを披露、1905年(明治38年)4月には、故実門人としてその名が記載された。1908年(明治41年)1月場所、前頭11枚目で全休し43歳で引退、幕内在位年数は実に19年間に及んだ。引退後は年寄佐ノ山を襲名する。佐ノ山部屋持ち時代は朝嵐長太郎(後の2代朝潮太郎)を引き取ったが、その朝嵐は再び本家の高砂部屋に戻している。大正9年8月26日に年寄在職のまま逝去した。享年56歳。

逸話としては左四つ右上手を引いての投げが鮮やかで、投げを打ちながら寄って出る正攻法の堅実な取り口を見せた。また、下手投げは独自の型で引き擦る様な投げであったという。反面、厳つい風貌から「おこぜ」というあまりありがたくない異名が付けられていた。料理が上手く、ちゃんこの河豚を自分で捌いたり、当時は珍しかったライスカレーも自分で作ったという。また、愛妻家や酒豪としても知られた。


朝潮太郎 (2代)編集

大正時代の大関、年寄高砂(3代目)。

本名・薦田長吉(こもだ ちょうきち)→坪井長吉(つぼい ちょうきち)、愛媛県新居郡(現・西条市)出身。


20歳の時には、体重の3倍近い荷物を持ち上げる程の怪力を誇り、それを見込んだ同郷で上記の初代朝汐太郎の佐ノ山親方に勧誘された。しかし、父が反対した為にすぐには入門は出来なかった。


父が亡くなると入門、1901年5月に新序出世、四股名は朝嵐(あさあらし)長太郎。1906年1月場所、新十両。1907年1月場所、新入幕。1909年1月場所、小結。1910年1月場所6日目、大関國見山との対戦で、下手投げを打った際、國見山の右膝が脱臼、気付いた朝嵐はそのまま組み止めた。当然勝負検査役も気付いて水入り、土俵下で控えていた横綱常陸山谷右衛門の提案により痛み分けとなり「情けの八百長」と評判になった。


小結に昇進してから一時低迷したが、1910年6月場所、関脇になり佐ノ山の現役時代の四股名である朝汐太郎の名を継承。1912年5月場所より、「汐」を「潮」に書き換え。1913年10月22日に高砂襲名が内定していた6代二十山(初代小錦八十吉。第17代横綱)が死去すると高砂部屋の後継者候補として名前が挙がるが、当時まだ平幕であった綾川五郎次(後に関脇まで昇進。当然ながら江戸時代に活躍した、第2代目横綱の初代綾川五郎次とは無関係)が対抗馬として名乗りを挙げた。この後継者争いは一門の親方衆、力士、行司をも含めて部屋を真っ二つに割り、裁判沙汰の大騒動となった。綾川派は「朝潮は金に困った佐ノ山によって友綱(元前頭筆頭の海山太郎)に売り飛ばされており、所属が高砂にない」とまで主張した。実際はそれを聞いて慌てた2代高砂が買い戻しており、証拠の領収書まで裁判に提出されている。結局年寄髙砂は朝潮が二枚鑑札(※1)で襲名するに至った。後年朝潮は友綱から帰属を買い戻された経緯から「自分は幸せな男だった」と述懐している。1914年6月場所では当時無敵を誇った太刀山峯右衛門と右四つの相撲。この一戦が評価され、1915年1月場所、大関に昇進。絶好調だった1915年6月場所には、途中休場してしまう等、目立った活躍はなく、1919年5月場所を最後に引退。


歴代の「朝潮太郎」の中では唯一優勝、もしくはそれに相当する成績を1度も納めなかったものの、通算では幕内26場所 98勝64敗25分7預66休、勝率.605と高い勝率を挙げる程の実力者であり、右を差せば無類の強さを発揮し、「右差し五万石」と呼ばれた。


引退後は7代東関(前述の第22代横綱・太刀山峯右衛門)から弟子を譲ってもらった事も手伝ってか、横綱男女ノ川登三(※2)や前田山英五郎を育てるなど弟子育成で成果を上げた。協会取締の重責も担ったが1932年の春秋園事件の責任を取って取締を辞した。1941年12月、前田山に部屋を譲って廃業。しかし1950年に開催された前田山の断髪式では師匠として止め鋏を入れている。1961年4月30日、82歳で没。


(※1)現役の力士もしくは行司が年寄、即ち親方業を兼務する事。昭和前期までは二枚鑑札の力士は多く見受けられ、現在では正式に禁止、廃止にはなっていないものの、昭和後半から二枚鑑札の力士は減少を辿り、1958年に行司の二枚鑑札が正式に廃止になってからは実質的に力士側の二枚鑑札も廃止と見做されている。


(※2)因みに男女ノ川は1929年の5月場所に2代朝潮こと3代高砂の許可を得て朝潮供次郎(ともじろう)と名乗ったが、春秋園事件で脱退した事によって高砂の怒りを買い、男女ノ川に戻されている。また、四股名が「朝潮」のみだと男女ノ川が3代朝潮となる為、以降は代数が一つ繰り下がり、3代朝潮⇒4代朝潮、現在の高砂親方である4代朝潮は5代朝潮となる。また男女ノ川は後に横綱まで昇進している為、「朝潮」の四股名を持つ力士は横綱が2人、大関が3人という事になる。


朝潮太郎 (3代)編集

昭和時代の第46代横綱、年寄高砂(5代目)。

本名・米川 文敏、鹿児島県徳之島出身(出生地は兵庫県武庫郡、現在の神戸市)。

週刊少年マガジンの創刊号の表紙を飾っている。

大阪場所にやたら強く「大阪太郎」とあだ名された。また胸毛が立派だったため「毛ガニ」とも言われた。

親方としては高見山大五郎や4代朝潮らを育てたが、1988年に親方在職のまま急逝。


朝潮太郎 (4代)編集

「大ちゃん」のあだ名で親しまれた昭和時代の大関、年寄高砂(7代目)。

本名・長岡末弘、高知県安芸郡(現在の高知県室戸市)出身。先代同様、大阪場所に強く唯一の優勝も大阪場所だった。また当時無敵を誇った横綱・北の湖敏満にもかなり相性が良かった。引退後、山響→若松→高砂と名跡は変遷したが親方を2020年まで務め朝青龍明徳らを育てている。

2023年に小腸ガンで死去。享年67歳。

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