ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

島原遊郭

しまばらゆうかく

京都の花街。1641年から1977年まで営業されていた。
目次 [非表示]

概要編集

京都市下京区に位置する花街の名称。正式な名称は「西新屋敷」。

幕末時、京都で唯一の幕府公認遊郭であった。新撰組と縁が深い事でも有名。

現在は、角屋という揚屋が一軒、輪違屋(わちがいや)という置屋が一軒だけ残っている。


由来と成り立ち

1589年(天正17年)、豊臣秀吉京都再興のために二条柳馬場に遊女屋を集め、京都最大の遊郭を開くことを許可した。その遊郭はやがて六条新地(現在の東本願寺の北)に移され、「六条三筋町」として栄えた。

さらに江戸時代に入り、京都の人口が増えると、官命により、寛永18年(1641)に朱雀野付近に移された。その移転騒動が「あたかも島原の乱の如し」と流布したことにより、「島原」と呼ばれるようになったといわれている。


   ○   ○   ○


開設以来、公許の花街として発展したが、単に遊宴だけを事とするにとどまらず、和歌俳諧などの文芸が盛んで、江戸時代中期には島原俳壇が形成されるほどの活況を呈した。


島原は老若男女の出入りも自由で、の女性達も手形があれば自由に廓の外へ出ることができた。江戸吉原と比較すると開放的な町であったといわれる。


島原の太夫は「こったいさん」と呼ばれ、正五位の官位を持ち十万石の大名に匹敵するとされた。御所において天皇への謁見を賜ることも可能であった。「こったい」の語源は「こちらの太夫さん」をもじったなど諸説ある。

公家皇族を相手にするため、高い教養が必要で、茶道和楽器書道香道華道詩歌、古典的遊び(貝合わせ囲碁盤双六投扇興など)に通じていたとされる。


なお、「島原の太夫芸妓は体を売らなかった」「島原は遊郭ではない」という説があるが、戦前の内務省警保局の公式見解によると、島原は遊郭であるとされている。

当時の芸妓は、貧しい家の娘が10歳くらいで身売りし、多額の前借金を背負って芸者屋に年季奉公するのが普通で、年季奉公契約書には、「抱え主から売春の指示があればそれに従い、借金返済のため努力する」旨の条項があった。

(注) 当然だが現在の芸妓は体を売らない。日本の古典文化を継承し、研鑽した芸のみを売るおもてなしのプロである。


京都の六花街の一つに数えられるほど栄えたが、立地条件の悪さや格式の高さが原因で、祇園など他の遊里に客が流れて徐々に衰退し、花街としての営業は昭和52年(1977)で途切れている。


別名・表記揺れ編集

嶋原 島原

関連タグ編集

花柳界 花街 傾城町 遊郭

芸子 / 芸者 / 芸妓 舞妓

遊女 太夫 花魁 / おいらん

置屋 揚屋 茶屋 料亭

女衒 水揚げ 身請け 花魁道中


外部リンク編集

嶋原:Wikipedia

太夫 (遊女):Wikipedia


公娼と私娼 (近代デジタルライブラリー) ※内務省警保局が昭和6年に作成した資料

関連記事

親記事

遊郭 ゆうかく

兄弟記事

pixivに投稿されたイラスト pixivでイラストを見る

このタグがついたpixivの作品閲覧データ 総閲覧数: 321

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました