北条時村
ほうじょうときむら
生没年 仁治3年(1242年)~嘉永3年(1305年)4月23日
第7代執権・北条政村の嫡男として生まれ、父が第8代執権・北条時宗のもと連署・執権を歴任したことから、時村も若いころから第6代将軍・宗尊親王に近侍し、文永6年(1269年)4月には引付衆、翌文永7年(1270年)10月には評定衆に加えられるなど要職に就くようになった。
文永10年(1273年)5月、父・政村が死去し、同年6月には引付二番頭人に任じられる。
建治2年(1276年)12月、六波羅探題北方を務めていた北条義宗が退任。文永9年の二月騒動後、六波羅探題南方も空席となっており、京の治安維持と朝廷の監視にあたっていた要職は南北ともに空席となる。建治3年(1277年)12月、六波羅探題北方に任じられ上洛。なお、南方には初代六波羅探題南方・北条時房の曾孫・時国が就任した。当時、文永11年の元軍襲来後も服属を求める使者が来航していることから両国関係は緊張を増しており、幕府重鎮である時村が防御態勢を整えるため、六波羅に派遣されたと考えられている。
弘安4年(1281年)5月、元軍が再び九州北部に来襲、しかし、防備を固めていた幕府軍の粘り強い戦いの末、またも台風が直撃し、元軍は打撃を受け撤退する(弘安の役)。この時、元軍が撤退したため、まにあわなかったが、幕府は本所一円地荘官(非御家人)の出陣を朝廷に申し入れ、閏七月「六波羅探題(北条時村)の下知に随い、戦場に向かうべき」との勅許を得たという(「壬生官務日記抄」)。時村はこの計画を企図し、重要な役割を果たしたとされている。
弘安7年(1284年)4月、執権・北条時宗が死去し、嫡男・貞時が14歳で執権に就任。連署・普恩寺業時、貞時の伯父・安達泰盛、内管領・平頼綱らが補佐する新体制が始まるが、すぐに安達泰盛と平頼綱の対立が表面化し、弘安8年(1285年)11月平頼綱が安達泰盛一派を粛清、全権を掌握する。
弘安10年(1287年)8月、連署に就任するために六波羅探題北方を辞任、鎌倉に帰ることになったが、期間が遅れたため大仏宣時が連署に就任。時村は同年12月には一番引付頭人、正応2年(1289年)5月には寄合衆に任命される。
永仁元年(1293年)4月、専横を極めていた内管領・平頼綱が執権・北条貞時の命により誅殺される(平禅門の乱)。
正安3年(1301年)8月、執権・貞時、連署・宣時が出家。北条師時が執権、時村が連署に就任する。