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サイレンススズカ

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さいれんすすずか

1990年代の日本中央競馬会(JRA)に所属していた競走馬(1994 - 1998)(メイン画像奥の馬)。1998年の宝塚記念(以上GⅠ)のほか、同年の中山記念・金鯱賞・毎日王冠(以上GⅡ)、小倉大賞典(以上GⅢ)を制した。「大逃げ」という派手なレーススタイルと、その悲劇的な最期で知られている。

98年 宝塚記念

最速の機能美、サイレンススズカ。

速さは自由か、孤独か。

2011年JRA宝塚記念CMより

誘導

  1. JRAにかつて所属していた競走馬
  2. 1をモチーフとしたウマ娘プリティーダービーに登場するウマ娘(メイン画像手前のキャラクター)。→サイレンススズカ(ウマ娘)

検索時の支障となるため、2にあたる作品にはリンク先のタグを使用する事を強く推奨する。

プロフィール

生年月日1994年5月1日
死没1998年11月1日
中国語表記無聲鈴鹿
性別
毛色栗毛
サンデーサイレンス
ワキア
母の父Miswai
5代内のインブリードTurn-to4×5
競走成績16戦9勝
産地北海道平取町
生産牧場稲原牧場
管理調教師橋田満(栗東)
馬主永井啓弐

誕生

サイレンススズカは1994年5月1日、稲原牧場にて生を受けた。

母はアメリカでスプリンターとして活躍し、引退後に来日したワキア

父は言わずと知れた大種牡馬サンデーサイレンス、母の父がミスワキという血統であった。

牧場でのあだ名は、母親の名前からとって「ワキちゃん」だったという。

トレセンに入厩してからは、併せ馬で準オープンクラスの古馬に先着するなど新馬らしからぬ好時計を出し、関係者の間では早くからその素質が期待されていた。

デビュー~4歳(現表記で3歳)時代

1997年2月1日の新馬戦でデビュー。

2着のパルスビートに7馬身の大差をつけ圧勝し、格の違いを見せつけた。このレースで5着だったプレミアートに騎乗していた武豊はのちに「皐月賞もダービーも全部持っていかれる。痛い馬を逃したと思った」と語っている。

その後皐月賞への出走権をかけ、2戦目にして皐月賞トライアルのGⅡ弥生賞へ出走。

しかし、ここでサイレンススズカは後々まで語られる珍事を引き起こす。

出走前のゲートイン中に突如鞍上の上村洋行騎手を振り落とし、そのままゲートをくぐってコースに出てしまったのである。

狭い馬房の中でグルグル回れる程の柔軟性が、妙な所で発揮されたものである。

このアクシデントの罰として、サイレンススズカは大外枠からの出走となった。その上、10馬身近くの出遅れをしてしまったのである。

しかしながらサイレンススズカはこの絶望的な出遅れをものともせず激走し、なんと直線に入るころには3番手辺りまで進出していた。

結局直線で失速し8着と掲示板にすら載れなかったものの、観客に大きなインパクトを残したレースであった。

その後、500万下条件戦をこれまた7馬身差で圧勝。

日本ダービートライアルのプリンシパルステークスも勝利し、意気揚々と日本ダービーへ。しかし、このダービーでは同じ逃げ馬のサニーブライアンの2冠を尻目に9着と完敗。

鞍上の上村が「先手を取ってもサニーブライアンは退かない。それでは共倒れになると思った」とのちに語った通り、このレースでサイレンススズカは後ろに控える競馬をしていたが、レース中は終始折り合いを欠いていたと言われている。

秋初戦の神戸新聞杯(GⅡ)でも、追い込んできたマチカネフクキタルに敗れ2着であった。

この神戸新聞杯の敗北は、鞍上の上村洋行がゴール前の直線で「次走の天皇賞に向けて心身ともにダメージを抑えたい」と考えて直線最後100m付近で流したことでサイレンススズカを内にもたれさせ、マチカネフクキタルに差される騎乗ミスを犯したことによるものであり、それまで主戦騎手を務めていた上村はここでサイレンススズカの主戦から降板することとなった。

その後河内洋に主戦を替えて天皇賞(秋)に参戦すると、1000mを58秒5というハイペース逃げを打つ。結果的にバテて3着争いに僅差の6着に敗れたものの、作り出したハイペースがレース終盤のエアグルーヴバブルガムフェローの一騎打ちを演出し、見せ場を作った。

続いてマイルチャンピオンシップに出走するも、スタート後に桜花賞馬のキョウエイマーチに競り負け、前半1000mが56秒台に達する殺人的ペースの中で2番手追走。直線手前で急失速し、生涯最悪となるタイキシャトルの15着に惨敗した。

年末にはGⅡ香港国際カップ(現・GⅠ香港カップ)に出走。主戦だった河内に先約があったため鞍上が空いたところ、本来は依頼を待つことを信条としている武豊騎手が橋田師に自らタッグを組むことを直訴し、新コンビ結成。マイペースで逃げた結果こそ5着だったものの、「抑えずとにかく逃げる競馬」に活路を見出し、翌年以降の快進撃へのきっかけを掴んだ。

5歳(現表記4歳)時代

年が明け、古馬となったサイレンススズカは、オープン特別競走のバレンタインステークスが始動戦に選ばれる。

オープン特別のために栗東所属の武が府中で騎乗するということもあって、レースでは断トツの1番人気に推される。ここで前半57.8秒という超ハイペースを刻みながら2着に4馬身差をつけての圧勝を果たすと、

GⅡ中山記念では、荒れた芝で後半に多少の失速もしながらも、一昨年の皐月賞馬・イシノサンデーなどを抑えて逃げ込み、重賞初制覇。

続戦したGⅢ小倉大賞典では、前走の内容がやや不安視されながらも、やはり良馬場で1000m57秒台を刻んで後ろに3馬身差をつけて勝利、重賞2勝目とした。

金鯱賞~11馬身の大逃げ

連勝街道を突き進むサイレンススズカの陣営が次に選んだレースは、GⅡ金鯱賞であった。

宝塚記念を見据えた競走となるこのレースには、重賞2勝を含め5連勝中のミッドナイトベット、昨年の菊花賞を制したマチカネフクキタル、4連勝でGⅡアルゼンチン共和国杯を制したタイキエルドラドなど、そうそうたる顔ぶれが集まった。

そんなメンバー相手に、サイレンススズカはスタートから勢いに任せ大逃げを敢行。2000mでは桁外れとなる前半58秒台のラップを刻みながら、第2コーナー時点で2番手に6馬身近い差をつける。そのままその差を開きながら真っ先に第4コーナーを回り、最後は重賞にもかかわらず「大差」(実際には約11馬身差)での勝利となった。あまりの突き放しぶりに、サイレンススズカが第4コーナーを回ったところで既にスタンドから拍手が湧き起る程であった。

二の脚を使った「逃げて差す」スタイルが最も生かされたレースとして、この金鯱賞をサイレンススズカのベストレースに推す競馬ファンも多い。

宝塚記念~初のGⅠタイトルへ

その後のサイレンススズカは、目標レースの天皇賞(秋)に向けて、疲労回復のために放牧に出される予定だった。

が、ファンの期待に応えるため、体調も良好と判断した陣営は、「春のグランプリ」である宝塚記念への出走を決断。

主戦騎手の武豊が先約のあったエアグルーヴに騎乗するため、南井克巳が代打騎乗を務めた。

ファン投票6位だったが、当日は武が乗るエアグルーヴやグランプリホースのシルクジャスティスなどを抑え堂々の1番人気。

レースでは前半に気分よく行かせる逃げをやはり敢行。最後はステイゴールドにあと一歩の所まで迫られたものの、鞍上にムチを入れられるとすかさず再加速。見事1着でゴールインし、念願のGⅠタイトルを手に入れた。

毎日王冠~影をも踏ませぬスピード

陣営が秋の初戦として選んだのは、天皇賞・秋へのステップレース、GⅡ毎日王冠だった。

この毎日王冠には、ここまでNHKマイルカップを含む5戦5勝とし、後にサンクルー大賞典優勝や凱旋門賞2着など海外で活躍したエルコンドルパサーと、朝日杯3歳ステークス(現・朝日杯フューチュリティステークス)を準オープンの古馬戦以上のタイムで制し、それまで4勝4勝と圧倒的な強さを見せていた、こちらも後にグランプリ3連覇を達成した3歳王者グラスワンダーの2頭が出走。

両馬ともにこれまで無敗であり、このレースは「3強対決」として話題を呼んだ。レース当日の東京競馬場には、この3頭の戦いを一目見ようと、GⅡレースにもかかわらず13万人もの大観衆が詰めかけた。

レースはいつも通りサイレンススズカが逃げに逃げ、1000m57.7秒というハイペースで逃げ続けた。そして直線では失速するどころか息を入れてさらに二の脚を使い、そのままゴールイン。2着のエルコンドルパサーに2馬身半の差をつけ、重賞5連勝を成し遂げた。

59kgという過酷な斤量を課されながらもこれほどまでに強い競馬をしたことに対して、2着となったエルコンドルパサーに騎乗していた蛯名正義騎手に「影さえ踏めなかった」と言わしめたことから、サイレンススズカは「影さえ踏ませぬ快速馬」と言われる事がある。

こうして、快進撃を続けるサイレンススズカは、予定通り目標の天皇賞(秋)へと出走する。

天皇賞・秋~突然の悲劇

1998年11月1日、遂に第118回天皇賞・秋の発走時刻となった。

サイレンススズカは、逃げ馬にとって最有利の1枠1番、さらにレース日も11月1日、単勝オッズ1.2倍の1番人気。まさに「1」尽くしの日であった。

また、このレースの後にはジャパンカップへの参戦、さらにはアメリカへの遠征計画も発表されていた。

ところで、この頃の天皇賞・秋にはとあるジンクスがあった。

それは「1番人気のが優勝できない」というもの。

実際、1987年に1番人気のニッポーテイオーが勝ってからの11年間、1番人気の馬が勝つ事は無かったのだ(1991年の天皇賞・秋では1番人気のメジロマックイーンが1着入線を果たしているが、他馬への進路妨害により18着降着となっている)。

天皇賞春(1998年)沈黙の日曜日

レースはいつも通り、サイレンススズカが凄まじい大逃げをうった。

カメラをいっぱいに引かないと出走馬全頭が映らないほどの大逃げ。誰もがサイレンススズカの逃げ切り、サイレンススズカの圧勝を信じて疑わなかっただろう。

サイレンススズカは、逃げ続けたまま第3コーナーへ向かった。

しかし大ケヤキの向こうから再び姿を現したサイレンススズカの様子がおかしい。第4コーナー手前で、突然の失速。2番手のサイレントハンターにかわされると、後続馬に次々と抜かされていく。競走中止。

     

「ああっと、サイレンススズカ! サイレンススズカに故障発生です! 何という事だ! 4コーナーを迎える事無くレースを終えた武豊! 沈黙の日曜日!」

(フジテレビ・塩原恒夫の実況より)

レースは柴田善臣騎乗の8歳馬・オフサイドトラップが1着だったが、スタンドの目は大ケヤキの向こうで起きた信じがたい出来事に集まっていた。

勝った柴田も、すでに亡きナリタブライアンなどとともにクラシックを戦い、幾度も屈腱炎を乗り越えたすえに栄冠へとたどり着いた老雄を称える一方で、サイレンススズカの状態については「これが競馬」と悲痛な表情を浮かべざるを得なかった。

陣営と観衆は、サイレンススズカの無事を祈るしか無かった。

しかしながら、彼に下された診断結果は

           「左前脚手根骨 粉砕骨折発症・予後不良

という最悪のものだった。

これを分かりやすく言い換えると、左前脚の膝回りの骨が粉々に砕け散っているので治療及び回復の見込みなし、安楽死措置を執行することが妥当であるというものである。

  • この措置は一見残酷にも思えるが、予後不良と診断された馬はその状態からの回復が極めて困難なケースがほとんどである。予後不良もしくはそれに相当する怪我を負った馬に治療を行った例もいくつかあるが、ほぼすべての事例において回復する前に合併症や症状の悪化を引き起こし、治療困難な状態に陥っている。詳しくは「予後不良」の記事を参照のこと。

サイレンススズカはその短い一生を終え、府中のターフから決して行ってはいけないゴールへと駆け抜けていってしまった。

たしかにGⅠ勝ちは宝塚記念の一度のみ。4歳時の戦績からも、「悲劇によって美化されているに過ぎない」という意見はある。

そして何より、「無事是名馬」という言葉があるように、怪我をせずにレースを走りぬくこと、それ自体もまた競走馬にとって重要な評価の一つであることも事実である。

しかし、それらを抜きにしてもサイレンススズカは戦略を無用とする絶対的な速さとともに、確かに当時の人々の記憶に残る存在であった。

5歳から武豊とコンビを組んで本格化し、名馬2頭を蹴散らした毎日王冠を含めた重賞5連勝という戦績。そしてそれ以上に、美しくも激しい大逃げは、到底並の馬に真似できるものではない。

「影をも踏ませぬ快速馬」サイレンススズカ。

君の一生は、いつまでも競馬ファンの心に刻まれるものとなるだろう。

余談

  • 彼の母であるワキアには、元々トニービンが付けられる予定であった。しかし、ワキアが発情した時にはトニービンが予定に余裕がなかったため、急遽サンデーサイレンスを種付けしたという経緯があった。
  • サイレンススズカの死によって、天皇賞(秋)のジンクスは最悪の形で続く事となった。このジンクスを破られるのには悲劇の2年後、2000年のテイエムオペラオーまで待たなければならなかった。
  • サイレンススズカが府中の4角手前で故障した原因は未だにはっきりしていない。少なくとも、この時のサイレンススズカは、関係者が「生涯最高の出来」と口を揃えるほどの仕上がりであった。騎乗していた武豊は競馬記者のインタビューに「予兆はまったくなかった」「原因はわからないんじゃない、無い」と返すほかなかった。
    • 管理する橋田調教師や競馬の神様こと大川慶次郎は「サイレンススズカ自身のあまりのスピードに、骨が耐えられずに粉砕骨折を引き起こしたのではないか」との見解を示している。
  • サイレンススズカの死後、鞍上を務めた武豊の落胆は相当なもので、全レース終了後の同日夜、号泣しながらワインをあおって泥酔する姿が目撃されている。同レースでテイエムオオアラシに騎乗し武とも親交深い福永祐一も、「あんなに落ち込んだ豊さんを今まで見た事がなかった」と振り返ったほか、後年に武自身も「あの日の晩は俺も死んでた」「泥酔したのはあの時が初めてだった」と語っている。6日後の競馬でも同じく橋田厩舎のアドマイヤベガのデビュー戦に騎乗した際に斜行で降着となったり、レース後に競馬場で歩きながら弁当屋にぶつかる様子が目撃されたりするなど様子がおかしく、一説にはこの日のショックを引きずっていたのではないかと言われている。
  • サイレンススズカの死後、JRAは彼の圧倒的な逃げによる6連勝を評価し、1998年度のJRA賞において特別賞を贈った。このような「死後にJRA賞特別賞を贈呈された馬」は、テンポイントライスシャワーに次ぐものである。なお、サイレンススズカの後にこのようなケースで特別賞を贈られた馬は2022年現在出ていない。
  • 武豊はデビュー当時からサイレンススズカのポテンシャルを高く評価し、「理想的なサラブレッド」と評している。また「今まで乗った馬で彼の代表的騎乗馬であるディープインパクトと勝負するなら、どの馬を選びますか」と問われた際、武は迷うことなくサイレンススズカを選んだ
  • サイレンススズカの最期を「沈黙の日曜日」と呼んだ塩原アナの実況は、その悲劇性を咄嗟に「日曜日の沈黙」を意味する父・サンデーサイレンスの名前に引っ掛けたもの。
  • サイレンススズカが産まれた1994年5月1日は、F1界伝説のドライバーアイルトン・セナがサンマリノGPで事故死した日でもある。セナもサイレンススズカと同様、予選1位(ポールポジション)からトップを維持したまま勝利するという先行逃げ切りの戦法を得意としていた。実際に、1998年の天皇賞(秋)での本馬場入場でも、F1実況も兼任していた塩原アナウンサーがF1になぞらえたフレーズでサイレンススズカを紹介していた。また、サイレンススズカの「スズカ」は三重県の鈴鹿山脈が由来(馬主が三重県出身)だが、三重の鈴鹿サーキットはF1日本GPが開催されることで有名である。ともに他を圧倒するスピードでファンを魅了するも悲劇的な最期を遂げたことから、セナの二つ名である「音速の貴公子」をサイレンススズカにあてはめるファンもいる。
  • 1999年の宝塚記念にて、テレビ放送での実況を担当した杉本清アナウンサーは、普段は出走馬の本命馬を名指すための「私の夢」に、出馬表にはその名がないサイレンススズカを挙げた。

  • 「今年もまたあなたの、私の夢が走ります。 あなたの夢はスペシャルウィークグラスワンダーか? 私の夢はサイレンススズカです。夢叶わぬとはいえ、もう一度この舞台でダービー馬やグランプリホースと走ってほしかった。」
  • そして時は流れ2022年、天皇賞(秋)で大逃げを打ち、2着に入ったのがパンサラッサである。彼の1000m走破タイムは57秒4。サイレンススズカの1000m走破タイムと全く同じであり、ネット上では「あの日見れなかった夢の果てが見えた」と、サイレンススズカのことを思い起こす競馬ファンも少なからずいたようである。しかもそのパンサラッサの鞍上は、あの日スズカのすぐ後ろを追走していたサイレントハンター騎乗の吉田豊であり、これも何かの運命だったのか。
  • 2022年、主戦だった武豊が「香港カップに出走する、栗毛に太い流星の、逃げを得意とする馬」であるジャックドールに騎乗することが決定し、このことについて「騎乗依頼はうれしいニュース」とした上で「初めて香港でレースをしたサイレンススズカを思い出した。あの縁を繋げられるようなレースにしたい」と、スズカの名前を挙げ、非常に前向きなコメントを発表した。もちろんリップサービスである可能性もあるが、ディープインパクトと巡り合うまで一切コメントを述べなかったほど非常に思い入れが深いスズカに言及したことから、彼の中で何か変化があったのかもしれない。

競走戦績

レース名グレード施行距離着順騎手1着馬(2着馬)
4歳新馬新馬京都芝1600m1着上村洋行(パルスビート)
弥生賞GⅡ中山芝2000m8着上村洋行ランニングゲイル
4歳500万下500万下阪神芝2000m1着上村洋行(ロングミゲル)
プリンシパルステークスOP東京芝2200m1着上村洋行(マチカネフクキタル)
日本ダービーGⅠ東京芝2400m9着上村洋行サニーブライアン
神戸新聞杯GⅡ阪神芝2000m2着上村洋行マチカネフクキタル
天皇賞・秋GⅠ東京芝2000m6着河内洋エアグルーヴ
マイルチャンピオンシップGⅠ京都芝1600m15着河内洋タイキシャトル
香港国際カップGⅡシャティン芝1800m5着武豊バルズプリンス
バレンタインステークスOP東京芝1800m1着武豊(ホーセズネック)
中山記念GⅡ中山芝1800m1着武豊(ローゼンカバリー)
小倉大賞典GⅢ中京での代替開催・芝1800m1着武豊(ツルマルガイセン)
金鯱賞GⅡ中京芝2000m1着武豊(ミッドナイトベット)
宝塚記念GⅠ阪神芝2200m1着南井克己ステイゴールド
毎日王冠GⅡ東京芝1800m1着武豊エルコンドルパサー
天皇賞・秋GⅠ東京芝2000m中止武豊オフサイドトラップ

先頭を、どこまでも先頭を。

1998年、「速さ」は伝説となった。

「他馬の後ろ姿は見たことがない」「後続に影をふませない」…。

常識をくつがえすことが、与えられた使命かのように、キミは先頭でゴールを走りぬけた。

驚異のレコードをたたき出した「金鯱賞」。2200メートルを逃げ粘りGI初制覇となった「宝塚記念」。

のちのジャパンカップ優勝馬を完封した「毎日王冠」。そして最後の戦いとなった天皇賞まで…。

君の雄姿は、君の残した記録とともに、ぼくたちの記憶の中で走りつづけている。

逃げることは挑むこと

魔物の手から逃れたいなら

先のことなど考えず

振り向かずに駆けろ

自由を得ようとするなら

失速の恐怖に打ち勝ち

前のめりに飛ばせ

常識を疑い

己が限界を否定して

摂理を覆すための

挑戦を始めるのだ

【2019年宝塚記念】

あの向こうへ

なぜそう急ぐかと訊く声も

もう十分だとたしなめる言葉も

耳には入ってこなかった

ただ知ってほしかったんだ

僕だけが授かった異能

より大きな力が身の内に

ひそんでいる実感もあった

僕を羨み、あるいは妬んで

追い詰めようとする者に

脅かされることもなかった

もっと速く、遠く、高くへ

いつか栄光への扉をくぐり

天空へとつづく門の向こうへ

そして誰もが僕を見上げ称える

ただそんな日を望んでいたんだ

【2024年宝塚記念】

関連タグ

競走馬 競馬 97世代 沈黙の日曜日

最速の機能美:競走馬サイレンススズカの異名。由来は上記の2011年JRA宝塚記念CMより。pixivではサイレンススズカ(ウマ娘)のイラストが多い。

ラスカルスズカ:99世代。半弟で同じく橋田厩舎所属。

アドマイヤベガ:99世代。同じく橋田厩舎所属の後輩。天皇賞・秋から6日後に武騎手を背にデビューするが…

アドマイヤコジーン:99世代。同じく橋田厩舎所属の後輩。沈黙の日曜日の際に京都で未勝利戦に挑んでいた。競走能力喪失級の大怪我を経験したが、脚にボルトを入れ、奇跡の復活を果たした。

ライスシャワーホクトベガ:レース中の故障により若くして死亡した1990年代を代表する名馬。ライスシャワーとは「死後にJRA賞特別賞を贈られた馬」という共通点もある。

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