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キュリー夫人

きゅりーふじん

キュリー夫人(マリー・キュリー)は、フランスの科学者。
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史実のキュリー夫人編集

(1867~1934)

本名マリ・キュリー(もしくは「マリー」)(旧姓スクウォドフスカ)。

放射性物質放射能の研究やラジウムポロニウムの発見で名高い、フランスの物理学者・化学者。

ポーランド出身。


当時のポーランドは長い戦争によりプロイセン、フランス、ロシアに分割統治され、国家そのものが消滅していた。


幼少期、貧しいながらも兄や姉と共に学校に通い、飛び級してもなお学年主席というチートじみた学力を発揮していたが、赤貧生活も祟り長姉と母を相次いで亡くす。

猛勉強の末にフランス最高学府であるソルボンヌ大学(現パリ大学)に合格し、相変わらずのド貧乏生活を続けながらも26歳の時に物理学者の学位を得た。


やがて8歳上の物理学者であるピエール・キュリーと出会い、結婚

婚前にはピエールは友人に「女性の天才というものを私は初めて見た」と絶賛していたらしい。

結婚式自体は質素なもので、教会での誓いも指輪もなく、新婚旅行には自転車で出掛けた。

やがて長女イレーヌ、次女エーヴも生まれ、幸せな家庭を築いた。


夫妻は当時話題になっていたベックレルのベクレル線(放射線)の研究について興味を持ち、ベクレル線の元となるウラン鉱石の純粋培養を始めた。

長きに渡る研究の末、夫妻は1898年にポロニウムの発見に成功した。

次いで1902年、ラジウムも発見。隠してその功績をたたえられノーベル賞が授与された。


しかし、それから4年後、ピエールは馬車事故で帰らぬ人となる。

その前にも父と次女(エーヴの姉に当たる子供)を相次いで亡くしていたが、その逆境にもめげずにつかみ取った栄光も、夫の死によって一夜にして消え失せた。


しかし、ピエールが在学していたパリ大学は、寡婦未亡人)となった夫人に対し、亡くなったピエールの全ての権利を譲ることを宣言。

悲嘆に暮れていた夫人も、亡き最愛の夫が本当に望んでいることは何かを改めて問い直し、ピエールの跡を継ぐことを決意した。

この頃から彼女は研究一筋となり、二人の娘の面倒は義父であるピエールの父に任せ切りになっていた。そして皮肉にもこの幼少期の体験が、子供たちが両親と同じ科学者を目指すきっかけとなる。


「鉄鋼王」アンドリュー・カーネギーの支援もあって、彼女はソルボンヌの教壇に立ちながら研究を続け、心なき人々の中傷と身体を蝕む消せぬ毒に耐えながらも1911年にノーベル化学賞を受賞。


晩年には放射線に蝕まれ、視力すら失ったとされているが、それでも彼女は夫と共に掴んだ夢と栄光、そして人類の未来のために研究を続けた。

1934年、悪性貧血でキュリー夫人はその生涯に幕を下ろした。66才だった。


前述した通り、彼女はノーベル物理学賞(1903年)、ノーベル化学賞(1911年)と、ノーベル賞を2度受賞している。

「ノーベル賞を受賞した女性」「ノーベル賞を2度受賞」どちらとも世界初である。


余談だが、白黒写真を見てもわかる通りの美貌の持ち主であり、パリ在学時代はナンパされることもしばしばあったらしいが、超ド級のリケジョであったが故に、ほとんど無視していたらしい。新渡戸稲造は全く着飾らない彼女の姿に「愛想のない人物」と語っている。

あと、歴史上類を見ないほどの料理下手という噂もある。


創作のキュリー夫人編集

マリー&ガリー編集

CV:野沢雅子

美しく知的で心優しい貴婦人。でも、ガリレオが間違えてきゅうり婦人と言ったときに繰り出されるキックには、素晴らしく激しいものがあり、時には強力な気を発して隕石すら粉砕する。ガリハバラの街では、ペンションとコーヒーショップとラジウム温泉を経営しており、迷い込んできた子供たちの世話もしている。


関連タグ編集

ポーランド フランス

科学 物理学 化学

科学者 物理学者 化学者

放射能 ポロニウム ラジウム

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